Vol.800+7

暗黒の記憶

この二千二十二年に起きている、ロシアによるウクライナ侵攻は、いまの地球上に生きている人間が、何の力によって動かされているかを、象徴的に示しています。その力とは、ロンギヌスの槍が持つとされる、復讐心です。ロンギヌスの槍とは、十字架上のイエスの脇腹を傷付けたとされるもので、その槍に強烈に反応した人間が、若き日のアドルフ・ヒトラーでした。
いまのロシアの指導者が憑りつかれているのは、ソ連邦崩壊を、冷戦という名の戦争に敗北したアメリカとその同盟国への復讐を果して、少しでも失地を回復したいとする強烈な感情です。同じように、ウクライナの側にも、かつて、ソ連のスターリンの命令で、数百万人のウクライナ人が殺されたことへの復讐心が、強烈に掻き立てられるという事象が、二千十四年にクリミアを失って以来続いており、戦いの正義は自分たちにあると信じています。この復讐心こそが、人間の歴史の中の暗黒面を理解する鍵なのです。この地上に置かれた「目には目を、歯には歯を」という言葉は、復讐権が、人間の文化の基本にあることを示しています。
その復讐権を放棄することによって、聖書の神は、一度は剣をつき立てたものの敗れた、闇の王を最後の審判の業火の中に、自らの身と共に投げ込むことに成功したのです。
いまの地球で生じている戦争は、光と闇の戦争ではなく、闇と闇の戦争で、それを終わらせるためには、人間の黒歴史のもとのもとたるものを知り、それを処理する能力を、人間自身が持たなければならないのです。
精神学は、その能力を開花させる学びの体系に、ほかなりません。
日本の仕組みの中における、聖書の神というものは、イエスの十字架後に、その意識エネルギーを、全体のプログラムをつくった神格のアマツツキ、記紀にウマヤドノミコとして記述されている聖徳太子、さらには、聖徳太子の死によって、イエスの再臨のイメージが失敗したことで生み出した、宇佐の八幡神などの意識体に分割したのです。
いちばんはじめにあった、そのエネルギーは、復讐心の塊であったといえます。
別ないい方をすると、はじめ聖書の神は、確かに戦いの神であったのです。
そして、この物語宇宙の神というものは、その復讐権の行使をできるものと、精神界では、広く認識されてもいたようなのです。
光と闇の戦いというものが、永遠に続くようにプログラムされているのが、この物語宇宙というものだといってもよいと、考えてみてください。
地球上の暗黒史だけが、その戦いの記録ではないのです。それらの過去のデータが、暗黒の宇宙と私が呼んでいる場には存在していました。
地球によって、この宇宙全体に、「最後の審判」が実行されつつあるという情報伝達が進められた結果として、その情報が伝達されるすべての領域から、そうした過去の暗黒の宇宙のデータが、地球に向っているというのが、この二千二十二年の姿なのです。
その情報系の中には、この宇宙といまは認識されていない時空のデータもあるようなのです。
それで私が認識しつつあるのは、この「最後の審判」ができる人間意識の出現によって、この宇宙そのものが、正体を現わすかもしれないという道です。
「最終知識」には、神もプロセスに過ぎない、という言葉がありますが、人間は、神の意識エネルギーの領域にアクセスすることで、この宇宙のテーマを学び終え、物語を終わらせる能力を持っていると考えるべきなのです。
この点が理解できないと、人間は何者かの代理人として、復讐劇をエンドレスに続けることになるといってもいいのでしょう。すでに何度もお伝えしていることですが、日本列島および日本人は、千九百四十五年の広島と長崎に対する原爆の投下に対する復讐権の行使をしないという選択をしています。それを、改めて、世界に発信するべき時が来ているということです。その上で、この世界を滅亡へと導くプログラムを終了させるための道をつくるために、正しい物質宇宙の法則を見つける必要があるのです。これが、人知が宇宙の法を知るという意味での仏を超える道で、そのための思考力を育てるために、精神学的な日本語脳が求められています。
この宇宙の暗黒の記憶を正しく知らない限り、その道は見えてきません。
すでに、人類は分岐点に来ているのです。

神紀二年(二千二十二年)四月二十八日 積哲夫 記