古代エジプトは、死後の世界があると考え、そこで生きるためには、名前を告げる必要があることを知っていました。
人間のたましいについて、エジプト人が考えたのは、天からくだり、また天に帰るバァーというスピリチュアルな存在と、地上で与えられ死後もその人間と結びつけられているカァーというスピリチュアルな存在から構成されているということでした。
日本でも、たましいのことを魂魄といい、魂の要素と魄の要素があることは知られています。
人間が死んで霊を残す、あるいは、死後の世界があると感じるのが、人類の文化的共通認識なのです。
そして、実はたましいを固定化するのは、その人が生きていたときの名前なのです。
現在の日本で、一般的な仏教の葬式でいうと、死者には戒名というものが与えられます。わかりやすくいうと、戒を受けることは、仏との契約を意味し、仏の弟子である、戒名をつけてくれた仏僧への弟子入りを意味する行為です。つまり、生きている間は修行しなかったので、死後の世界で仏教的な修行をいたしますという契約です。死者のたましいが、生前からそれを希望しているなら、それでけっこうですが、いま、生きている人間のほとんどは、死んでいくべきところを自ら想定することなしに死んでいきます。また、仏教のお経は、祈りではありません。それは生きているものが考えるべき、教えであり、たとえば、般若心経のように多くの日本人がありがたがって死者にあげているお経は、「存在は空なり」という、高度な観念論をテーマにしています。考えることのできない死者の霊にわかりますか?
さらにいうなら、「安らかに眠ってください」というのも祈りではありません。祈りとは何かは、「最終知識」に記されていますから、ここで説明することはさけますが、日本の死者のたましいは、行き場も知らず、祈りによっておくられるわけでもないのです。
「最終知識」の最終章に、新しい天国をつくると、私をつかさどる存在が伝えてきたと記されています。そして、この命の書のシステムも伝えられました。命の書に名前を登録された人間のたましいは、死後、「光のなかでいやされ」次の用意をします。
それもまた契約です。名前を記さなければ、たましいというエネルギー体の特定ができません。精神界には、闇のカオスというべき死霊の層がエネルギー的には、たしかに存在しています。放置すれば、死者の霊はそこに行くことになります。
これに対して、命の書に名前を記すということは、その名前を持つたましいが、これからも進化と成長を続けることの約束です。
この宇宙のはじまりの前と終わりの後をつなぐ、光の道すじに、それは用意されています。