あそび、むすび

“あそぶというのは、あらは(顕)れる、ということですから。
かみあそび、ことばあそびで、どうでしょうか?

……不敬、って、いわれませんかねぇ
それをタイトルに掲げるのはさすがにどうかと(名前負けしそう……)

物語も、言葉も、約束も。どれもあらわれては、最後には結ばれるもの、です。

ひそひそ、と、こんな会話から決まったタイトル。

そんな「誰か」との会話と、自分の何かを、つづるところ。”

No.57

「絵画もまた、お金の種類」

 

「ご存じの通り、ユダヤ人は美術絵画を価値保存の一手段として捉えています。

絵もたった一枚しかないものの、世に流通し、価値を保存するとすれば、それはお金と一緒ですよね。

であれば、コンテンツクリエイターたちは頭の中の情報を形にすることでお金が作れます。問題は、「君たちはどう生きるか」、なのです。

そのコンテンツは、あなたの魂にとって、義にとって、良きものでしょうか。」

「疑問があります。

今面白いともてはやされるのは、魔のものが情報源と思われる話が多いです。でも、正しく美しい話ばかりだとつまらないようにも思われます。多様性がありません。いろいろ試して生まれるものが面白いのではないでしょうか?」

「そうですね。でも、おそらく、あなたの心配は杞憂に終わります。

その時代、人々の心の中では既に光と闇の争いが起こります。(つまり、その争いのあとに光が勝っているのなら、ある種の邪悪な波動の作品はそもそも始めから嫌厭されていくだろう、ということ)

考えてみてほしいのですが、その闇のコンテンツが、ずっとずっと人気を得た、愛され続けて何十年と君臨した、なんて歴史はありません。

だいたい日本人の社会現象は、その作品の通奏低音、テーマに呼応するものだからです。

どのコンテンツでも、光と闇の戦い、なのです。

人類の通奏低音はいつも常にそうなのですが、その精神史に直に光をあてる発想の作品は、おそらくまだないはずです。――ないように、なっているのです。」

 

よく考えたら、聖書というコンテンツで二千年ももたせるなんて、聖書の神は、それだけの莫大な精神エネルギーを保持していた、ということなのだ。