光文書

(ヒカリモンジョ)

Vol.800+30+70

早良親王または崇道天皇

桓武天皇の復活に呼応するかのように、平安京遷都の原因ともなった、最強の祟りをもたらしたとされる早良親王、別名崇道天皇の登場があったので、今回はその報告です。
それは岡山県でのこと、ある用件で岡山県の津山市を訪れていた私に、精神学協会員のある人物からある人物に、問題を解決に導く手がかりがその場所の近くにあるはずのご陵という言葉が伝えられ、それが加茂神社の背後にある、崇道天皇陵だったのです。そして、そこには早良親王、または崇道天皇と呼ばれた神霊が、確かに待っていました。
いうまでもなく、桓武天皇の皇太弟であったのが同母弟の早良親王で、その親王は、もともと出家して、東大寺の良弁の後継者としての未来が決まっていたほど優秀な人材だったとされます。それが、道鏡事件で有名な称徳天皇の死後、天皇になった父の光仁天皇の意向で、還俗し、桓武天皇の即位と共に立太子されたものです。
その早良天皇は、長岡京遷都の責任者であった藤原種継の暗殺事件に関与したとされ、淡路島に流される途中の現在の大阪の守口市にある高瀬神社の近くで、死んだとされます。その死は、抗議の絶食による死とも、桓武の命による餓死ともいわれています。
どちらにしても、仏教を極めなかったにしても、知識も能力もあり、怨み骨髄の早良親王は、御霊になるには充分だったでしょう。その遺体は、淡路島に送られ、埋葬されたものの、その後の早良親王の御霊によると信じられた祟りが多発したため、現在、崇道天皇陵として知られる、奈良の山の辺の道の側にあるご陵に改葬されたと歴史書には記されています。

その早良親王のご陵が、なぜ、岡山県津山市にあるのか、その理由は分らないと、当の加茂神社の説明文にもありますが、私の知るところでは、これは、和気清麻呂のなしたことのようです。
西暦七百八十五年の藤原種継の暗殺には、万葉集の編者として知られる大伴家持をはじめとする多くの人間が連座していたとされます。そして、その中には和気清麻呂の長男も含まれていました。この長男は、和気清麻呂の功績もあってか、軽い罰で済んだとされています。
主謀者のひとりとされた大伴家持は、事件の約一ヶ月前に死んでいますかが、埋葬は許されず、官籍からも除名されています。
桓武天皇にとって、藤原種継なき後の和気清麻呂は、それほど、重要な人材だったということです。
それは、長岡京の建設と共に、桓武天皇は、難波宮の役割を終わらせるべく、和気清麻呂とその地域の長である摂津職長官の大夫に任じていることでも分ります。
つまり、早良親王が死んだ現在の守口市も含めて、いま大阪とされる摂津の国を管轄していたのは、和気清麻呂だったということです。
そして、和気清麻呂は、現在の岡山にある和気神社のあるエリアの出身者で、道鏡事件の功績によって、備前美作両国の国造ともなっていたのです。
現在の津山市は、その旧美作国の一部であり、これで、和気清麻呂と早良親王のラインが結ばれることになります。そして、どうやら、難波宮を終わらせた主要な役割を担ったのが、和気清麻呂ということもはっきりしました。
なぜ、私が、このタイミングで、この事象に導かれているのかというと、どうやら、この早良親王の死と、難波宮の廃止、平安京遷都というものが一連の動きであり、現在の大阪の悪性波動のもとは、この歴史の中に隠されていると、やがて解明される仕組みがあると考えられるのです。
この知に到った結果の私の頭の中には、天之御中主天皇という言葉が浮んでは消えているのです。それが、何を意味するのか、これから明らかになるのでしょうが、古事記、日本書紀というものが天武朝の時に記され、平安遷都は、もとの天智の血に戻った時代に起きたことと、難波宮の消滅がリンクしている先に、アメノミナカヌシの秘密もありそうなのです。

神紀四年(二千二十四年)二月八日 積哲夫 記