カリスマの無残

日本の流通を革新した、カリスマ経営者がこの2005年に死んだ。日本最大の流通グループをつくりながら、結局、日本の土地神話の終焉と共に、行き詰った。土地を担保に拡大し続けるという戦後日本の経営のひとつのシンボル的創業者の死であった。
カリスマといわれる創業者、経営者には、ある一定の比率で、何らかの役割を担って人間界ではたらいている神々のワケミタマ、古い言葉でいうなら「ミコトモチ」という存在がいた。
そうした人物が成功していく過程で、精神世界からの大きなバックアップがあったことはいうまでもない。彼らの多くは、そういう力の存在を感じていたし、知ってもいた。そして、その人間のこころざしのなかに、時代を変革するという、神々からの命令のようなものが含まれていることを感じてくれる、支援者や支持者がいて、その事業が成功したことも知っていたはずなのだ。
スピリチュアルなエネルギーによって、人間集団をまとめ、ある目標に向かっていく能力は、古くは王や将軍に期待されたものだし、近代では、イデオロギーや政治の世界で発揮された。それは、プラスの側にも、マイナスの側にもはたらくのだ。たとえ、当初のこころざしが正しいものであったとしても、成功し、肥大化した人間集団のなかでは、別な原理による支配のメカニズムがはたらきはじめる。いつの間にか変革者は支配者に変わり、組織は硬直化していくと、有能な人間が去りはじめ、カリスマは孤独になっていく。いつまでも自分が意志決定者として行動しなければならないという一種の強迫観念にとらわれ、やがて、判断を誤る。社会的成功は、カリスマの周辺に、その力を利用しようとする多くの人間的な思いのエネルギーの結界をつくることに気づかぬまま、はたらき続け、なぜ、失敗に向かっていったのかを知ることもなく、人生の終りを迎える。
精神世界のエネルギーのバックアップを受ける人間は、昔でいうなら、神界といった上層の座から、この世にはたらくためにくだってきた神々のワケミタマなのだ。
本来のお役目をはたせなかったそのワケミタマには、かつていた座に帰る資格がない。
多くの人間が、成功したいと思って神やら仏やらに願うことと、それはすこし違うのだ。カリスマの多くは、自分の神すじを知らない。だから、ウカノミタマ系の神格からのバックアップを受けたものが、晩年は、仏教に帰依しているという不思議なことも起こる。
カリスマといわれる人間は、その力ゆえに、人生を誤る可能性も高いということだ。
何のために生まれて、何をして、どんな死に方をするのか。その一連の時間の結果を判断するのは自分ではない。たとえ、信仰があったとしてもカリスマ的人間は、普通人より重い責任を問われることを知るべきだ。

積哲夫 記