神的意識へのめざめ

孫たちに振り回されて記すことを怠り、やっと静かに自分の時間を楽しむゆとりを見つけた。しばらく何をするでもなく、まず上昇して心を定める。2009年2月15日、和歌山支部を立ち上げ、その後の状況を辿ってみる。                    
書くことが山積している。忘れないうちに・・・熱い思いが冷めないうちに書いておかなければならない。そう思うと、さすがのんびり屋の私でも焦りを感じ始める。              長い年月、私の希望するまま、求めるままに、今現実となって担うことを素直に受け止め、働けることを喜びに感じている。辛くても苦しくてもそれらは喜びの種として受け入れられるだけの経験も積んでいるし、学び続けてきた。少々のことではへこたれないだけの自信があると思うが、その自信が一瞬にして闇の手先になっていることも解らずに、操られている危険性も体験してきた。そんな中、今本当に至福の喜びにも似た感情が込みあがる。どんな辛い時にも心の奥は笑顔。お腹が痛く苦しいのに、それに耐えながらでも喜びの感情が消えていない。本当に不思議な感情である。これはいつの頃から?記憶を辿ってみると十年くらい前になるだろうか。車を運転しながら、ふと家族のことを思う。いろいろ問題は絶えないけど、でもそれを乗り越えるたびに、家族の絆が深まったことを観じて喜びあった懐かしさを思い出した瞬間、胸から熱いものが込みあがってきて涙がこぼれ一人泣き。その後も胸の温かいぬくもりが消えず、そのぬくもりを忘れていても家族を思うと胸のところが暖かくなる。人生を学びとして受け入れることによって得られた喜びと、更なる学びを求める者に与えられる知識と役割を担うための方法を、精神学協会という場において今私は働けることを楽しんでいるようでもある。勿論精神学の学びは決して平たんものではない。山・谷・いばらの道を乗り越えた後に与えられる力。命がけではあるけれどもその裏には必ず喜びが付いていることも実感させてもらえる。けっしてオカルト的なものではないことが自分自身の中で信じられるものであると、わたしは実証いたします。人を癒す力も、平和を願う心もその人の人生の体験の中で湧きおこる思いであって、決して人に委ねられるものではありません。まず自分自身を見つめることから始めましょう。自分を知れば他を非難することや中傷することなど到底できるはずりません。人間はそれほど完璧ではないことは誰もが理解するところです。そして自分の言動においても責任のもとに行うべきという意識の目覚めも理解できるはずです。

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