このところ

このところ、たて続けに夫の親戚の人の訃報が続いていた。
長野の葬式は、物入りで派手な結婚式の引き出物ぐらいお土産が出る。リッチな家ならまだしも貧しい家ではそれも憚られる。
夫は、昔、世話になった叔父が亡くなっていたことをハガキで知った。
「それを知ってびっくりしました。ぜひ、お伺いしたいと思い~」
「お葬式は、やらないことにしてるんです」と娘さん。故人の遺言らしい。
それでも、なんとか仏壇に手を合わせて貰えるように頼み込んだ。
うちの義母の主人が若くして亡くなった時、祖父の財産を全部貰えると思っていた妹の旦那に、説得してこちらに貰えるように取り計らってくれたのが、故人だと聞いていた。
その額は、たいした金額ではなかったにせよ、長びいた病気と残された母と子二人の生活は、極貧だった。
「若い時は、ハンサムでかっこ良かった。それにリーダーシップがあって…」人格者だった。のは、私にも感じられた。ただ、一生不運続きだった。
画家の親父が、娘の結婚式の前日に、村共有の炭を盗んでお金を作り、それがバレて縁談は破談。美しい娘はどこぞの妾になるしかなかった。一粒種は、兄である故人の養子になった。その子は行方が知れない。
それだって、一家は、村八分状態である。本人は全然悪くないのに、最後は、失明し、足の不自由になり仕事にも影響した。意気消沈しながらもつつましく、正しく生きた。
その話を主人から聞いたはずであるが、本人は覚えてないどころか、「知らない。どこから聞いた?」と疑って言う。(帰って来て、本当だったと驚いていた)
私は、親が子供の人生を狂わすことに非常に憤りを感じていた。あれがなければ…普通に人生を歩めたのに。それとも、それも含めて試されるのが、彼の人生だったのか?私の尊敬できる人だったなぁと思う。

中島みゆきの歌で♪「彼女の生き方」というのが、ある。
「お前さんがたの方が、あこぎなマネをしてるじゃないか、彼女の人生いつでも晴れ」という歌詞が浮かんだ。
人に何言われようと、精一杯生きている人は、かっこいいと思う。

それで、主人は、桜の季節に撮影がてら、長野の親戚を廻ることになった。
大草の桜や、高遠は、桜の名所で写真集にも紹介されるほどの名所だ。
私から見ても、高遠は緑の色が違う。土地の波動がいいのだと思う。
もちろん、私は留守番だ。
桜の一番いい時に出会えたようで、喜んで帰って来た。そして、思う存分親戚の人と話もできた。
義母は、みんなが心に留めている。普通できないことをやってのけた頑張り屋さんでもあった。
義母の姉が実家にいて、お嫁さんが苦労しているのを感じて、東京に連れ出したのも感謝されていたと聞く。
その義母の姉が危ないらしいと聞いて帰って来た。
息子が長野に行くと聞いて、義母は「誰かが死んだのか?」と思って涙ぐんでいた。
「違うよ、□□さんが死んだから、遅ればせながら挨拶に行くんだよ」と考え過ぎだと思った。
しばらくして、本当にその時期、義母の姉が亡くなっていたのだ。
最期には、ウツになって、誰にも会いたくないと言っていたので、本当に小さな家族葬だった。
香典も送らないでくれとのことだったけど、やはり送らない訳に行かないだろうと親戚と相談して主人は送った。
最近、お葬式はだんだん小さくなって行ってる。

さて、5月になって、義姉の一周忌の法事をお寺で行った。
「親のお墓に入りたい」と義姉の願いであったので、お寺に相談して許された。
旅行のため、施設にショートスティさせてあったところに、夫婦で喪服を着て、しかも埼玉から従兄弟も一人喪服で来てくれて、「娘さんが死んだ」ことを知らせても、痴呆のため理解しなかった。
埼玉から、眠った顔の写真を写メールで送ってくれとのリクエストで送信したデータをプリントアウトして、義母に見せても(老け込んでいたためか)「違う」と言って分かって貰えなかった。
それが、数カ月過ぎた頃、自宅で「○○エ、死んだの?」と義母が急に言い、私が頷くと泣き顔になった。
生前、義姉から電話がかかって来て、「お母ちゃん、愛してるって言って!」と情緒不安定な声で言ったものだから、「酔っぱらっているんだろう?」ガチャっと、つれなく電話を切った母親、嘘でもいいから「愛してる」って言ってあげればいいのにと思っていた。淡泊だと思っていた母親は、ちゃんと娘を愛していたのだった。
生きた人間でないものが知らせて、娘の死を理解したのだ。やはり、ある種の能力者なのだ。それが悪さをするのだが、オイルを塗っても余計悪さがひどくなって、私は義母を救えないでいた。私にも頭痛が移ることがあるが、その時に義母の辛さが分かるのだ。

何はともあれ、義姉が亡くなった時、ゴミ屋敷だった部屋に入り片っ端からゴミ袋に詰め込んで、不要なものを処分しようとした。しかしアル中で脳をやられているので、私の行動を呆然と眺めているだけの旦那は、ごみ袋からまた引きずり出して段ボールに入れ直している。却って私に敵意を抱いている様子なので、行くのをやめにした。その後、生活能力がないとかで、市が保護をして市内のどこかの施設に入れられたらしい。

そんな訳で、主人が施主になり、花やら団子やら、果物、卒塔婆など、法事の手配をして、彼女の子供たちにメールで知らせた。
息子の方は、来ないかと思われたが、一家で来るとのこと。娘の一家ももちろん来るので、総勢8人となった。
「どうしたの?」
娘さんは、腕に痛々しい包帯を巻いて、首から三角巾で腕を吊り下げている。
「昨日、自転車で転んで、顔も擦ってしまって…マスクで隠してるんです~」
彼女は母親の酒乱にも耐えて、明るくそつのない人で、こんなことは初めてである。
法事が終わり、お墓参りをして解散。娘さんの申し出で、5人で食事会になった。
海へ連れて行き、子供が喜んだところで、予約していた寿司屋に向かった。
そこへ、私のスマホが鳴った。
「市民病院から?」
「あのこちらは、市民病院ですけど、お宅のお婆ちゃんが『助けてくれ~』と叫んでましてね~」
訳が分からなかった。私たちは、喪服を着て、じゃあちょっと出かけてくるね~と手を振って出たのだ。
「お葬式?」と聞くので、「法事」と答えるより、「うん」と返事をして家を出た。ご飯もちゃんと出してある。
義母は足が弱くなっていて、伝え歩きでようやくトイレに行ける程度の脚力しかないのだ。
「家の中で叫んでて、声が外に聞こえるのか? どうやって家の中へ入った?」旦那が訊く。
「さ~ぁ?」
歩けない義母が、自分から家の外へ出るとは、全く考えつかなかった。
「通行人がそれを見つけて、救急車を呼びましてね。放っとく訳にもいかないんで。今、病院に搬送されたんですけど。お名前は○○△△エさんですよね?」
「はい」
「すぐに、病院へ来れますか?」
「はい、参ります!」
「パジャマに名前が書いてあったので、表札を見て、この家じゃないかと。推理してですね。お宅の携帯番号を探し当てたってワケですよ!」少し自慢げである。
私は、娘さんの携帯に電話して事情を説明した。
「とにかく、寿司屋へ行って、事情話して、30分遅れますからすいませんと言ってから、病院へ行こう!」
2台の車は連なって、病院へ到着した。
救急入口から入って、受付に手短に説明した。「今日、彼女の娘の法事があって、みんな出払ってたんです。伝え歩きしかできないのに、どうして」
すぐに、面会できた。丁度診察中であった。
「わけのわからないことを言ってるんですけど、いつもこうですか?」
私は、一瞬、義母の眼を見て、感じとり、しっかりと答えた。
「はい、いつもこうです。大丈夫です!」
お医者さんの困惑気味の表情が、フッと緩んだ。
実際、日頃、言っている意味がよくわからないが、わかった風にうなずいている。プロの人に訊くと、その方が安心するらしいのだ。
雰囲気とか、返事で充分通じる。ご飯にするは、お茶碗にお箸を書き込むジェスチャーをするし、寝る?は、顔を斜めにして両手を添えるのだ。うんとうなずくと手伝うのだ。
「ちょっと、足を擦ったみたいで、かすり傷程度ですが。助けて~、助けて~って叫んでましてね。パジャマのズボンが脱げてしまって、はかせましたけどね」
私は聞かれてもない言い訳をした。
「おしっこのおもらしをして、オムツをはき替えるんですけどね。ズボンも匂うんで下だけ全とっかえして、だから柄が違うんです」
市の職員らしき人が来て、ドアの鍵を閉めてくれたらしい。それも市営住宅に住んでて良かったと思った。
「じゃあ、連れて帰ります。お世話になりました」
「じゃあ、帰るから、もう車回して!」
30分以内なら、駐車料金は無料である。
車椅子に乗せらせた義母は、キョトンとしている。
「トイレ」と一こと言った。
姪っ子と二人でトイレに連れて行ったものの、清算もあるので私が会計に行った。
「自分でなんもかもしようとしている、しっかりしてる」と姪っ子が絶賛した。
「義母は、死んだらまっすぐ上へ行けるよ」と積さんが言ってくれたほどの人格だ。老人性痴呆は意外だったけど、私の根性を入れ替える為に、オカシクなった気もする。近頃は、夜中のトイレの世話もすっかり板について、老い度が進むのと反比例して、私も改善されたと思う。
後期高齢者医療被保険者証がないので、今日中に提示するということになった。
結局、寿司屋は4人行くことにして、旦那が家に残ることになった。
「あんまり、長い間来ないと心配されるから、姪っ子と子供だけ寿司屋へ行かせて、車2台で自宅へ向かった。
義母を負んぶしようとするが、寄りかからないので、お姫様抱っこを私がして、ハイヒールでよたよたしながら、玄関でバンドを外せないので、そのままベッドの部屋まで突入した。
その時も、通行人が、「手伝いましょうか?」と声を掛けてくれた。
「大丈夫です!」と主人が答えた。
主人には、「保険証出して!」「車、駐車場に!」と言った。
主人は私に指示されるのが、不服のようであるが、「私の居る時に、移動しないと」というと慌てて置きに行った。
預かったお布施の袋をテーブルに出し、保険証をバッグに入れ、靴を履き替えると、姪っ子の旦那の運転する車に乗り込んだ。

「それにしても、助けてって、通路に出て行くなんて、こんなことってあり得ない!よっぽど恐かったんだよね~」
「それに、○○エさんの法事の前日に転ぶなんて、珍しい~」
病院の待ち時間にそれぞれが考えていたことだった。
「そう言えば、私、夕べから頭痛かったんだよね」
「亡くなった時、ぼくの車が揺れたんだよ。地震かと思った」
去年、私たちは式年遷宮で賑わう伊勢に行こうとしていた。日帰り温泉を楽しんで、近くの道の駅の駐車場で一泊していた。その明け方、「地震だ~」と主人が騒いだ。しかし、私は眠っていたし、感じなかった。「かなり揺れた」とニュースを見るのだが、地震はなかった。そして、埼玉の従兄妹から電話がかかって来た。
「○○エさん死んだって、ビールを3缶飲んで、お風呂へ入って出るのが遅いと思っていたら、こと切れていたって」旦那が救急車を呼んだが、間に合わなかったらしい。
なんで、埼玉の方から知らされるのかワケが分からないまま、これからお詣りって時に残念だなと思いながら、「じゃあ、帰らなきゃね」と私が言った。
「価学会のネットワークで連絡が行ったらしい」
「せっかくここまで来たんだから、今日はお詣りして、明日帰ろう」と主人は言ってくれた。外宮、2時間待ちの内宮をお詣りしながら、意外にも若い人が多くて驚いていた。伊勢うどんを駆けこみ、土産に赤福餅を6~7箱買い込んだ。
あんな寂しがり屋が、お通やはなく、なぜか火葬場に一人で一晩安置されていた。
遺体と対面が、もうお花を棺桶に入れるセレモニーになってしまって、秘蹟のオイルも塗れずに、帰ってから一人祈った。
隣には、参列者がたったの一人という侘しく焼かれていた。
創価学会の人が大勢でお経を唱え、焼かれてる間になぜか、埼玉から来てくれた従兄弟の土産に買った赤福餅が二箱、忽然と消えた。係の人に訊いても、「何もなかったですよ」とのこと。
キツネにつままれたように火葬場を後にした。

病院へ寄って貰って、会計し、何度もお礼をして病院を後にした。
寿司屋へは、30分どころか、1時間遅れた。

やっと一息ついて、お食事会となった。11時半に予約していたから、ちょうどいい時間になった。
それぞれにそれとなく感じていることを口にした。
「生きてる時も、人騒がせな人だったけど、死んでも人に迷惑をかけるのね」
「腕の筋を伸ばすなんて、普通あり得ないし、しかも前日によ」
「おふくろがあんなに怖がるなんて、普通あり得ない」と主人も言っていた。
「かまって、かまってってね」
「特に、義母のような感応者に、すがるなんてね~」
お坊さんには、「故人を偲んで思い出話でもしてあげて下さい。それが一番の供養です」と言われていた。
義母が恐がって、家の外にまで出て、助けを求めたのは、暗黙の了解で○○エさんの性にされてしまった。
私は、その時まで、オイルを額に塗って弔った気でいたのだが、そう言えば、対面したのは、火葬場だった。命の書にはとっくに登録し、そんなことをバカにしていたご主人も登録した。骨を拾う時も祈った。死んだとたん、もう未練がなくとっくに飛んで行ったと私には、感じられていた。
「しかし、まだ、成仏してなかったんだ」と私の力のなさを思い知った。それとも、あの手の人を私は、リスペクトできなかったからか。
カウンセラー3回分のお金を主人が支払い、勉強のため、見学させて貰った。私は、SBMをしに何度かお邪魔した。カウンセラーは、あまり人に触らせないのは、重篤だからだと教えてくれた。だから、旦那の方にオイルトリートメントをしたこともある。
義母が重くなって、あまり家を空けられなくなったので、「行かれなくなった」と言った。
訪問者が来なくなった家は、荒れ放題のゴミ屋敷になった。
倒れたから見舞いに来て欲しいと言われ、タクシーで駆けつけた。
それは、これ以上落ち込ませないためで、ウツとウツの夫婦は直りが遅いのだ。
「一度、お母ちゃんに会い」というので、日を決めて、我が家に招いた。
たくさんの手作りおやつを出して喜んでくれた。
私は、二人のツーショットを携帯で撮って、プリントアウトして、額にいれプレゼントした。前の亭主や、子供の写真を部屋中に貼り、今度の二人の写真がなかったからだ。
私は、関西に住んでいた時、絵のモデル用にドイツ製のビスクドールを買ってあった。それが羨望の的だったらしくて、「羨ましくて、この人形を買ったの」と二、三体の人形を見せてくれた。「そんなの私に言ってくれたら、あげたのに」とプレゼントした。
その人形の顔が壁に向けられていたので、私のことを羨ましいだけで、好きなわけではなかったのだと察した。彼女自身のことを叱られるだけで出来の悪い人間だと思い込んでのウツだったのだろうと察した。私自身、優等生で在り得たことなんて、昔の一瞬だけだった。
「私だって、(義母に)怒られるよ」と言ったら、「怒られることがあるの?」と驚いていた。だったら、主人に死なれて寂しくて、お酒に逃げて、騒ぎを起こすようなことをしなければ、もうちょっと強ければ、子供たちにも分かって貰えたと思うのだ。
少なくても、人を傷つくような言葉を彼女の口からは一言も聞かなかったと記憶している。
私の方が、よっぽど悪いのかも知れない。

お寿司屋さんの最後に水羊羹のデザートが出た。
義姉の話題はすぐ終わって、いつの間にか子育ての話題になっている。
まだ話したりなくて、二次会に行こうかと言い出した。
「○○エさんが生きていたら、入りたかったであろう、かわいいお店に行こうか?」
という事で、ケーキ&カフェに入った。店構えは、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家。
ケーキも店内も一流だった。なぜ、ここじゃ流行らないのかと言えば、高級過ぎるから。
話題も尽きて、家まで送ってくれて、別れた。
伊東サロンの木彫の看板は、美術の先生をしている旦那の「生徒の参考にして」とお貸しした。
クマの木彫りの前で、ポーズを決めてくれたのを写メールで送った。

家にお寿司とケーキの手土産を貰って、帰ると、主人は寝ていた。
義母はずっと寝ていたらしい。「じゃあ、食べれれば良かったのにね」とは言ったものの家に誰かいた方がよかったのだ。
「お袋、北側の部屋まで歩いて行って、床に荷物いっぱいあったのに。窓辺の電話のところまで、来たらしい。受話器が外れてたから。外まで出るなんて、よっぽど恐かったんだね」

その日の夜のことだ。玄関のチャイムが鳴った。
なんとなく、主人宛ての来客の気がして、主人が出た。
上の階の人が勢い込んで話している。途中で私も呼ばれた。
「3階の組長(町内会の)が亡くなっていたというのだ。しかも、金を使い込んでいる、どうしたらいいのか分からない。会長には相談しに行った。お金のことは組で話合え」とのことだった。連絡が取れないから、娘さんが心配して来たらしい。警察が来て、ベランダから回って、窓を割って、遺体が見つかったとか」それが夜明けの3時頃だというから、午後3時の間違えじゃないのか?よく解らない。
「助けて~」と、義母が必死で逃げ出したのは、午前中だった。
その人が訪問したのではないかと推測した。いくらなんでも○○エさんの性にしては、気の毒なことをしたと思った。
それに、義母の件が噂にならないのは、本当にたまたまの通行人だったのかも知れない。

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