『光の精神に成る。』6

2011年7月3日(日)
親友が和歌山県の熊野那智の滝が見たことがないという話から、では熊野様からお伊勢様まで参拝に行こう。ということになりました。
3日朝早くから2人で軽車で出かけました。
京都から京奈和自動車道で奈良を抜け、十津川村から熊野大社へ。次に熊野速玉大社に参拝し、大きな磐座(いわくら)のある神倉神社に登りました。
次に熊野那智の滝に向かい、先に熊野那智大社と青岸渡寺(西国三十三ヵ所一番札所)に寄りました。なんとなく思っていましたが、ここではよく歩きました。
お寺から道を降りて行って、有名な那智のお滝をすぐそばで見て、自然の雄大なエネルギーを感じました。
その後、伊勢外宮に向かいました。

伊勢外宮では正宮にお参りした後、トヨウケの大神様の荒御魂の多賀宮にお参りした時は小高い坂を登るところから頭が痛くなりました。(孫悟空のわっかの部分)
イカリとシンパイの混じった感じのもどかしさみたいな、痛みでした。
土宮に来るとなんか光っているなと思ったら、一斉に蝉がものすごい声で鳴き出して、カラスも一緒に鳴き出したので、これでいいのかなと思って、土宮と風宮にご挨拶した後、アマテラス大神様の内宮に向かいました。
夕暮れ、16:20ごろ到着。親友のもう一つの目的が赤福本店で赤福を食べることでした。
2人車を降りて、正宮でご挨拶して、次アマテラス大神様の荒御魂の荒祭宮様に向かおうと正宮を出た時、ポツリと雨が降って来て1分もしないうちに激しい夕立ちになりました。
親友は「どうする?」と言ってきたので、「荒祭宮には絶対に行く。」と私は言いました。
私の折りたたみに小さな傘が1つしか持っていなかったので、親友のカメラを私の鞄に入れて雨から守り、親友はびしょ濡れで、私も半分濡れていました。
荒祭宮の近くでは道や階段は川の様になり、頭の上で雷が何度も鳴り響いていました。
荒祭宮に着いてお参りを済ませ、ひょっとしてと思っていたのですが、早いところ宇治橋まで急ぐと、橋に着くころには雨はかなり小雨になりました。
17時10分で赤福本店の喫茶営業も終わり、「もうちょっと早かったら。ごめんなさい。」と私は親友に謝り、親友は「では次回来る時のお楽しみということで取っておこう!。」と言ってくれました。
親友は、おかげ横丁で買いたかった伊勢うどんとタレがお土産に手に入ったので、満足してくれていました。

内宮外宮の荒御魂様のところでは、自然のものすごいダイナミックなエネルギーに会い、人間のコダワリやワダカマリなど一発で消し飛ぶなとひしひしと感じて、また那智で持ってきたダルイ感じはなくなり、身体も頭痛もスッキリしていました。
変な面倒くさい精神はなくなり、元気になりました。

帰りは道は空いていて、2時間で京都に着いたので、軽車をしまって、20時には近くの居酒屋に入りました。
親友も僕も楽しいドライブと参拝の旅路に乾杯しました。

やはり修験道は歩かされる。
でももう「修行の時代は終わる。」
人間のコダワリと築き上げた思い込みたい世界(これが幸福だと信じたい)など、天の理から反するものは一発で消し飛ぶ。
昔の人は畏敬の感があった。
今は畏敬という言葉も忘れ去られ、科学や技術や知恵は自然をコントロールできると思いたいらしい。
しかし、地震国火山国の日本において、地震から逃げることなどできない。起これば膨大な自然のエネルギーに人間の力など無きに等しい。

原子の力を人間は制御できると思いこんでいる。それは無責任な楽観論である。

オリオン座のベテルギウスは爆発寸前で、地球から640光年の彼方にあるため、既に爆発しているかもしれない。その爆発の光が地球に届けば、心配なく無事なのか、それとも大量の宇宙線によって太陽系の地場がどうかなって、人間に生物に影響を与えるのか。
わからない。なってみなくてはわからない。― だから起こらない。のとはちがう。

文明は、長く続いた高度な文明でも、滅びゆく時期を知らなかった。
後世の文明は今までの文明が滅びた歴史を知っていても、自分の文明が滅びるとは思っていない。

新約福音書に「その日その時は、誰も知らない。唯一の神のみが知っている。だから常に目を覚ましていなさい。」とイエス様はいわれている。
でも人間は今の生活理念を優先にコダワリ、他の人の理念をネタミ、ソネミ、バトウ、ノノシリ、ハイジョする。
それは自分が全く正しいと思っているからだ。
でも真実は思い込みたいだけであり、本当の真理の前では、審判の前では、傷つくのが怖いからである。

「せめて、
人として唯一の神の
真理と神組み(しくみ)を正しく知って理解し、
死んでゆく者こそ、本当の幸福な人なのかもしれない。
   それは唯一の神の大いなる愛の慈しみを理解した存在すべては
至福の感動に至るからである。」

ミエル

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