#11 日本の昔ながらの生きかたは、世界を救う かもしれない。



金融資本主義という奪取の仕組みが行き詰まり、次の社会のグランドデザインができないまま、世界は漂流しているように見えます。
いまは、境目にありますが、この先新しい仕組みを、みんなで考え、作っていかなければなりません。

日本は昔から、おおらかな民主主義のクニでした。
少なくとも聖徳太子の時代、7世紀にはすでに権威と権力を切り離し、民こそが「おおみたから」の国だったのです。
ゆるやかな原始共産制が主軸であったともいえるし、一億の民のほとんどが総じて中流階級といわれていた時代には、最高にうまくいった社会主義とも評価されています。

それは、仁徳天皇の「民のかまど」のお話にもよく現れています。

  天皇陛下が、人々のくらしを、お心にかけられて、
  皆さんの家のかまどから、煙が立つことを見て確認し、
  みんなが今日もご飯を食べられて良かったと安堵して、
  神々に感謝の祈りをささげる、という 日本の美しい原風景。

  民のために日々、祈りをささげる天皇を中心にいただき、
  民はお互いの意見を聞き、話し合い、ものごとを決めていく。
  「民主主義」などと、ことさらに言わなくても、それが当たり前の世界。

こんなことが、普通に当たり前としてこんなにも長い間続いてきたクニは、ほかにありません。

日常何ということもなく他者を慮(おもんばか)り、相手を思い察して行動をとる、などということが、普通のこととして、社会で暗黙のうちに求められるということは、日本以外の世界ではないことです。
そうしたことが、大震災のときなどの人々の態度にあらわれたり、競技会場の使用後のゴミの少なさにもあらわれます。
日本が大好きになる外国人の方々の中には、そういう部分を快適と感じ、自らもそのようにありたいと願い、定住される方も多数いらっしゃいます。

そのようにある意味で特別な国なので、良くも悪くも日本の常識は、世界では非常識なことになってしまうのです。
日本の常識は、一歩海外に出ると通用しません。
現金の入ったお財布を落としたら、無傷で出てくるなど考えてはならないのが海外の常識です。
その辺に荷物を置いて、席を離れてはいけないのも当然です。

和辻哲郎さんの『風土』に詳しいように、地理的なことも、大いに影響している民族性でもあるでしょう。 
だから、「いまある世界の論理」を良く知って、対応しなければならないのです。

そして、いま学ぶなら、世界に学ぶよりは、むしろ温故知新で掘り起こすことが最先端につながるのではないでしょうか。

たとえば、「経済」という言葉ひとつをとっても、歴史とともに変遷があります。
もともとは、政治と経済をあわせた広義な言葉として流通していた経世済民(または経国済民)という漢語を略して「経済」にした、と一般にはいわれています。
語義といわれる「経世済民」とは、世を經(おさ)め、民を濟(すく)うという意味で、Economyの訳語の経済とは異なり、より広い意味での「政治・統治・行政全般」を指していました。

海保青陵(一七五五~一八一七年)という江戸時代の経世家(経済指南を努める学者)は、生涯のほとんどを諸国漫遊に費やしましたが、各地で諸侯豪農層を対象に啓蒙活動を行い、経営コンサルタント役として、経済改革において思想的な後ろ盾となりました。
江戸時代は、武士は「金回り」のことに口を挟まないことが暗黙のルールで、金儲けは商人の行う卑しき家業である、とされていたところ、海保は、「産業商売に関わらないでは、経世済民を行うことはできない」と説いたそうです。

   「買わねばならぬ世の勢いならば、売らねばならぬはづ也。
    武士は物を売らぬものと云ふこと、をかしきこと也。
    貧になる証拠也」 (『稽古談』のなかの海保青陵のことば)

たしかに、藩の財政を考えると、税収だけに頼らず、産業を主導的に行うことは、各藩の財政状況をよくしたことでしょう。

明治初期の頃までは、ポリティカル・エコノミーの訳語としてあてられ、「貨殖興利」のエコノミーと区別の必要があると考えられていたものが、明治維新に伴う近代化、殖産興業ブームの過程で、「経済」は徐々に「貨殖興利」の方に重きが置かれ、やがて「Economy」の訳語が「経済」となり、その訳語が清朝(中国)にも逆流していきます。

18世紀前半の日本の思想家である太宰春台(しゅんだい)の著作『経済録』(日本で初めて「経済」という単語が著作名に登場した書籍)には、「凡(およそ) 天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」と記されているそうです。
まさしく「経済」を「治世」と定義しています。 一方、19世紀前半の思想家である正司考祺(こうぎ)の『経済問答秘録』には「今 世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」という一文が登場。
「経済」は「貨殖興利」という捉えられ方が浸透しつつあったことを逆説的に裏付けています。

経済活動は、経世済民であるのが良い、と私は思います。
クニとともにあり、民の豊かな才能を花開かせ、あるときは民を救済する経済。
凶暴で狡猾な経済ではなく、世のため人のためにもある経済、社会システムを見出すには、日本ならではの考え方がますます必要になっていると思います。

経世済民に関しての記述は、これまで知っていたことのほか、下記の両サイトより短くまとめさせていただきました。

   経済学という翻訳語について
    http://blog.goo.ne.jp/nipponianipponn/e/f6fe6dcdbf8dae664d8f40d14e2bacc5

   経世済民
   http://www.yokokai.com/index.php?UID=1363619731

平成二十九年四月十四日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ