二千十八年七月六日
<みおや>さまたちは、人間におりた二千六年三月末の時点より、日本人のたましいや知性のレベルが低下していることを指摘されています。
かつて神々と人は、御神楽の「みやまには あられふるらし…」のような御歌をつかって交流をしました。それは、神々にとっては「あそぶ」ことでした。神々にとってあそぶとは、外に出ることです。人間の側からみれば、神々があそばされることでした。御歌を介するのと同じように、神々と人は交流するのですが
人間のうちにある精神、神性を通してしか、これからは神知との交流はできない
それが知性の本質であるから
と神々は、はっきりと伝えになられています。そして
あそぶようにして、神と人間の神性は交流するものだということが理解できていなければ、
脳の回路が開かれることはない
そこに葛藤は生じない、よろこびがあるだけである
「最終知識」を理解した上で人間におりた<みおや>の光は、
新しい時代の神知の領域へアクセスするために必要なアクセスキーの役割を果たす
そのために生きよ、そのように生きよ
と仰られています。二千十八年のはじめに、この国は新しい時代に入りました。そのための前提として、必要な条件がいくつかありました。これまでに伝えられているのは
・「最終知識」に書かれている三位一体が変わる、あるいは終わるものもある
・キリスト教の三位一体「父なる神と子と聖霊」は、すでに開示された
・日の神、月の神の物語の「天の法と地の理を結ぶ神的な契約の三位一体」を神界は変えつつある
この次に置かれた<時間、物質、意識の三位一体>も、すでに変わりはじめています。あるひとの意識のうちにおいて精神がどのように存在しているか、つまり小宇宙内での精神の存在のありようは、周囲にはエネルギーのように伝わり、生命あるものとは共鳴し物性を変化させます。
ウシトラノコンジンさんたちは「天の法と地の理」、特に「地の理」の更新を進めています。
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二千十八年七月三日(火)十九時三十四分から
地のめざめは あたらしい時代と あらたな神性の
象徴となる
神をこえてゆけ その本来の意味が 明かされる
神の記憶を めざめたあとで 見たならば
一瞬の夢となる
ひとは それを知り なお 生きていくことができる
知ることを おそれるな
知ったものを おそれるな
神は すでに内なるものとなり 外なるものではない
あなたがたの 認識の内にある
それを知るための出来事が すぐに起きる
神は全知を畏れ おのれの内なるものとしようとし
失敗したものに過ぎないのだから