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Vol.583

言の葉は言の刃に

古事記と日本書紀は、ある意味で予言書として記されたというのは、これまでもお伝えした通りなのですが、その最後の扉が、どうやら剣神界と私が呼ぶ、フツ、タケミカヅチの神格の覚醒にあるらしいということがはっきりしてきました。
明治維新から、昭和の敗戦まで、このタカアマハラ由来の剣神界は、事実上、一切、動かなかったというのが、私の知るところなのですが、その理由は、天孫降臨を正しくこの世に伝えることのできない人間たちが、この日本を統治していたから、というものです。
タカアマハラのアマテラスは、スサノヲの子孫の統治していたこのクニを自分の子孫がシラスクニへと変えることを望み、それを実現するためにはたらくのが、フツ、タケミカヅチです。この剣神界は、もともと、鹿島、香取という関東地方にまつられていた神格なのですが、藤原氏が、自分たちの氏神として、奈良に春日大社をつくることで、ヤマトの政権と深い関係を形成していきますが、その後の歴史上の武力の行使には、ほとんど影響を与えてはいません。なぜかというと、ある段階で、この剣神界の役割を、宇佐八幡の神格が担うことになったからです。
応神天皇であったと称する神霊が、宇佐の地に降りて、まずは祟り神として人間界に、その存在を知らしめたのは、その神格が、人間の人格のように、ひとつのパーソナリティによるもので、万世一系の天皇のおおみこころのような、集合体ではないことを示しています。ところが、この祟り神の神格が、この世に権現することで、改めて人知を学び成長していきます。その結果が、奈良の大仏プロジェクトへの参加だといえます。
こうした歴史的データが示しているのは、あるレベルの神格を持った人間のたましいは、人間世界において成長し、この世を去るだけではなく、この世に再び神として下り、神社などにまつられても、意識体としてのそれは、成長するものだということです。これらのことは、これまでの人知にはない、神と人間の関係性を示しています。この秘密は、たぶん、この日本列島にだけに置かれ、これまで、秘密のヴェールの向こうに置かれていました。
「最終知識」をよく読めば、私がイセアマテラスと記述している存在は、この人間界に属しているという認識にとらわれるはずです。
そこでは、タカアマハラは、日本列島上の神界なのです。
日本列島が、その他の地球上の他の地域と決定的に違うのは、この列島上にのみ、日本語という神々の言語を使い、神々の思考パターンを投影された人間によって、世界史とは違う、もうひとつの歴史が刻まれてきたという点にあると気付いてください。すると、アマテラスの言葉が、神界の存在が人間界のことを知るために用意された場が、日本列島なのだということに到ります。つまり神々が成長するために日本列島に、人間として降りるだけではなく、神社にまつられる神格を持つ存在としても降臨し続けていたということです。
ここで、出雲のオオクニヌシに、タケミカヅチが国譲りを迫る場面を思い起こしてください。
タケミカヅチは、オオクニヌシに、汝がウシハクこのクニを、アマテラスの子孫がシラスクニにすると、言葉で伝えただけです。その言葉を理解したからこそ、オオクニヌシの国譲りの神話が成立するのです。そこでは、言の葉は、言の刃として、機能しています。剣神界の秘密が、ここにあります。
光の剣というものは、実は、言葉なのです。正しい言葉が使われると、そのことだまは、光を持ちこの世の闇をあきらかにしていきます。
これまで、神界語としてのやまと言葉は、人間界の論理性とは、別のもののように機能してきましたが、新しい日本語による神思考の時代においては、この人間界の論理性における整合性を持つことになります。
そのムーブメントこそ、私がお伝えしているシンロジカル・シンキングだといえるでしょう。これが完成すると現行の英語文明の時代が終わり、日本語文明の時代がはじまります。
二千十八年は、そのはじまりの年なのです。

二千十八年一月十一日 積哲夫 記