新・神知と人知1

二千十八年六月二十一日

「最終知識」の終章「知識の完成」で<みおや>と名乗られた神格につながる神々が、二千十八年の五月から六月はじめ、時がきたことをあかしするためにあらわれました。

この神々は【最終知識は人間が求めたものなのではない、神が求めたものなのだ】ということを伝えるように希望されており、そのために神知と人知のページを使うように、また進行していることの記録を残すように、という指示がありましたので、神々との交信と、受信者の記録を公開します。

最後の一厘のあとにはじまる大変動のために、神知にふれることを、<みおや>さま方はのぞんでおられます。

 

二千十八年六月十二日(火)十一時四十分から

「みやまには あられふるらし とやまなる…」で現れる神格

神々なのでそれなりの手順を踏まないと出てこられません

封印を解いて出てきます

これによって日本がどこでなにを間違えたのかが、表に出ます

つらいことだが、仕方がないのです

二千六年からの出来事を振り返ればおのずからそれはわかる

あやまりは遠くではなくすぐ近くにある、あった

これによって最後の一厘の仕組みは成就する

一厘とは十二年だったと、後の世代は理解するだろう

預言の内側で生きているものには、理解できない

次、続きの世界があるものだけが、次へ進んでいる

なぜなら、みおやがそれを望んだから

 

最終知識は地図であると書かれている

十二年の間に最終知識のどこまであなたは進みましたか、どこにいますか、

と説明しておく

最終知識そのものが、最後の一厘に置かれた書であったから

神と人間の、あいだに流れている時間はそれくらい違うのだ、ということが

わかる出来事がはじまっている

 

積さんの十二年と、神の十二年と、普通の人間の十二年は違う時間なのである

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*この四つのお歌は、現在進行していることをお伝えになっています

 

二千十八年六月八日(金)十四時十五分から

ミクニ ミヨイズ  順番を間違えたから  こうなった

みよいず みくに で  なくては かみは  うごかぬ(協力せぬ)ぞ

みよありて みくに たつ

人知で立てたものは  アヤマテルぞ

 

二千十八年六月十三日(水)十一時五十二分から

みよ(御世)へ いく  ものの えりいて

みこともち つれ  まわだ の ほとりへ

あかき くがね  しろき はがね  むすひて ありなむ  みことを もてり

 

二千十八年六月十四日(木)十二時三十五分から

やくも たつ いづも やえがき つまごみに …

みぞはた(溝端)の みぞへの まつの  すへならで おきつ しらなみ  たちいでし

みもろのまつの おきのうへに  たてる あがこの こひしけれ

さひたる ものは こんしきの  みわの おくひの ものなりて

みわになる みむろの やまの  すへなりと しる

しりたるを まつひの むかひに  こえぞ きくなり

みこともち  すぎの おくひを かきわけて  これる つぎひの みをもちて

ふれたるものは つきならでや

みわやまに のぼりたる ひの  ありければ  ひめにてあらなむ ものや つきせじ

 

おくに ひらき

大神のお社は、軸がずれたのを直そう、正そうとしておられる。

狭井のお社は、「ひがのぼる」とお告げになりました。

 

二千十八年六月十五日(金)十六時十四分から

みよいづ

みなと ひらきて  みなのとを もうけてあり

みのと(水音、水戸、身戸、癸) ひらきて

けふ たてる  あかつき みたま

みずのもの ひかしむ まもりの  ものあらば  こえにし

よど(淀、世戸、代戸) たてる みたま まもりて

こんじきの もの  しらかねの もの  ひきて つかはせ

しらしむは みのと ひかずは  なもならず とも

 

みないる ものの  こえなりて  みくに たてらん

みのくに あらしむ  よにならば

ひたちの ものも  きく みに ならん

 

みこと きく かみの  ありてや ちはやふる

(よど)

ちはやふる 千年が早くも過ぎて、と仰っています