風読み

この春のお彼岸は
風のお彼岸だった
仕舞いかけたマフラーをぐるぐる巻きにして外を歩いた

23年住んだところの地元の氏神さんスサノオ社に行った
次代の子たちの追い風になってくれますように
とお祈りした

ふと藤圭子氏を思い浮かべた
健全性を保てなかった心がそうさせたのかもしれないけど
自ら死を選択したのは一人娘の風になりたかったから
かもしれない

光の部分が頭に浮かんできた

ここへ
父の
「念願のうち」を建ててから
50年目になるちょうど一ヶ月前に母は発症した

紹介してくれた病院へ行き
そこからあっという間に
歩行不可
言語不可
という状態(風、)に母は自分を変えていった

これでは自宅療養は不可能よね。これでいいのよ。

言うかのようだった

ここのうちに住んでいるとここかしこに
造作をみては
・ああ。こういうふうに工夫してくれていたのだな
・もっとオープンにしてくれればよかったのに
と「わかること」がある

生育家庭は風通しのわるい家族関係だった

いろんな工夫造作、の今となっては「なごり」は

いろんな問題、環境を抱えてでも生きていくには
ここへ家族が住むには
そして時を過ぎ去らせるには

それなりに「なんとかするしかない」一助になっていたのだとわかる

風がなごりとなっているのをここで見届ける自分。
それもいつかは未来に
次代の人間が「なごり」として見ていくんだろうなー

このお彼岸。
わたしは風読みをした。

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