<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十二回

積哲夫の問い

薩摩藩の倒幕活動の中心にいた西郷隆盛には、伊勢神宮のお札事件など、謀略家としての側面も指摘されています。もともと、菊池家では、西郷家の筋は、しのびというか、諜報機関のような役職だったともいわれており、南朝系のこの諜報ネットワークが幕末においても機能していたとすると、明治維新が薩長による南朝クーデターというのも納得がいきます。ところが、この諜報部隊の存在が、西南戦争ではかき消えてしまいます。西郷を嫌ったとされる島津久光が、薩軍を支持しなかったことも、その勢力を削ぐ一因であったかもしれませんが、いまでいう情報機関の協力が得られなかったことも、あの戦いの悲劇を生んだ要因のように思えます。この辺について、精神界から伝えられていることがありますか。

 

マツリの返信

慶応三(一八六七)年八月から起きた「ええじゃないか」の大騒ぎの中で、伊勢神宮などの神仏のお札が降りました。この件に、西郷さんなど薩摩の関係者や倒幕派が関わっていたのではないかという話があります。

「ええじゃないか」は三河地方ではじまって、東海道の宿場を中心にやがて関東から四国まで広がっていきました。男性は女装、女性は男装などの扮装をして、世相を批判するお囃子などを歌いながら「ええじゃないか」と踊りまわりました。お札が降った家ではおまつりをして、数日間集まってきた人びとに食事やお酒を振る舞い、宿泊の世話や施しをするという習わしがあったそうです。想像すると、かなり異様な光景のように感じます。民衆には、神仏のお札が降ったのは、開国、幕長戦争、物価の高騰、貧富の差などが生じている「世を直せ」というご神意だという噂とあわせて、広く受け入れられていたようです。倒幕派はこの騒ぎを利用、便乗していたと見られます。

畿内で「ええじゃないか」が盛んに起きていた期間は、十月の大政奉還と十二月の王政復古に重なっています。岩倉具視の業績を記した『岩倉公実記』には「西郷や大久保、中岡慎太郎や坂本龍馬と王政復古の相談をする時、岩倉邸への出入りに幕府や会津桑名が気づかなかったのは、天の助けがあったからだ」「自分の挙動も騒ぎに隠されて、人目に触れることを免れた」という趣旨のことが書かれています。

まったく同じ頃、江戸では「ええじゃないか」だけでなく「御用盗」といわれる騒ぎが起きました。薩摩屋敷と支藩の佐土原屋敷を拠点に、武装した浪士や浮浪人五百人が、強盗放火暴行などの事件を起こして江戸市中をかく乱したものです。攻撃の対象は、①幕府を助ける商人と諸藩の浪人②志士の活動の妨げになる商人と幕府役人③唐物を扱う商人④金蔵をもつ富商の四つでした。ある強風の晩に伊勢神宮のお札が降り、同時に「討幕は天の意志」という噂が流されたという話もあります。天候を利用して不思議な出来事や火事で騒ぎを起こし、人心をそらすのは忍術にもある手法です。

この浪士たちが起こした騒ぎが、十二月末の薩摩屋敷の焼き討ちをまねき、翌慶応四(一八六八)年一月に幕府は「討薩」を上表して京都へと進軍を開始し、伏見で戊辰戦争がはじまりました。江戸かく乱の指示は、幕府を挑発し討幕の軍を起こす名目を作ることが目的で、西郷さんが薩摩藩士の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)と伊牟田尚平(いむたしょうへい)に指示を出し、相楽総三(さがらそうぞう)らが実行したというのが通説になっています。実際に西郷さんが指示をしたのはどこまでだったのかは、説がわかれています。

実行部隊は、江戸で集めたアウトローな人たちで一時的なものだったので、組織的な諜報部隊と言えるものではなく、南朝系のネットワークだったとも考えられません。なお、相楽総三は下総の郷士の出でした。戊辰戦争には、赤報隊を組んで参戦し、偽官軍として処刑されています。

長州との同盟関係ができる過程で、南朝の忠臣菊池氏の子孫だと自認していた西郷さんが、南朝クーデターに関与していくようになったことは推測されますが、そのことと島津久光はじめ薩摩藩の動きや、のちに西南戦争で薩軍として戦った他の人たちの行動は別のものだと考えられます。明治維新以降の歴史は、複数の物語が複雑に入り組んでいます。後醍醐天皇の遺念と南朝の物語だけでは説明できないこともたくさんあるので、構成要素の一部分としてとらえておくのがよいと思います。

表の歴史には書かれていませんが、幕末維新や自由民権運動には、博徒のようなアウトローな人たちと、幕府、公家、諸藩、明治新政府がそれぞれ深く関わっていて、お金の流れも含めて実行の原動力になっていました。このことは、今日まで続いている日本の歴史の現実を理解する時に、避けることができない内容になっています。西郷さんはじめ、維新の功労者や元勲と呼ばれてきた人たち、また維新の志士といわれてきた人たちも、それに関係していました。それは、闇の世界のこと、ダークサイドの話であって、正しい神界には情報はありません。西郷さんが倒幕と維新の過程で、実質的に軍事以外の要職につかなかったことが、掌握していた分野や人間関係を示していると考えることはできそうです。

ただ、西南戦争で敗れて復活してきた薩軍には正義がありました。このことは「勝者と敗者というだけで単純に二分できない歴史があるということを知りなさい」と、精神界から伝達を受けました。江戸のかく乱事件と西南戦争は別の要件だということです。西南戦争については、いったんあらためて、もう少し調べる時間をいただければと思います。