光文書

(ヒカリモンジョ)

Vol.800+30+165

モーゼと大国主

いよいよ二千二十五年も十二月となり、この光文書も一千回という終わりまで、あと、一ヶ月ほどとなりました。この時点で、日本の仕組みの最終情報ともいうべき日本史と世界史の相似性について、モーゼと大国主というテーマで語ることが許されたので、今回は、その報告です。
私はこれまでも、日本史は世界史に重なるように進んできたということを、お伝えしてきました。ここで重要なことは、日本列島に置かれた神話から現実の歴史が、聖書の話と一神教の歴史に対応しているということなのです。
この光文書でも、剣山に失われたアークが、何故、置かれていたのか、などの謎解きをしてきた訳ですが、そこに示されているのは、聖書のテーマを解決する鍵が、日本にあると気付かせるための用意ということでした。そして、このストーリーが動き出すタイミングで、旧約聖書のモーゼ五書で知られるひとりの歴史上の人物が、復活して、精神学協会の活動に参加することになりました。ブッダやイエス、それにムハンマドなどは、「最終知識」という書に登場しますが、モーゼは、その時点では、神界に座を持たないため、言葉を伝えることはありませんでした。
ただし、精神界のデータでは、モーゼはこの世を去ってから、地獄の番人としての役目を与えられ、地獄に落ちるたましいの観察をしてきたとされます。
それが、いよいよ復活することになったのは、聖書の時代が終わり、最後の審判の時代に突入したからです。
一神教の歴史を調べれば分るように、ひとつの神の代弁者として、旧約聖書の時代には、モーゼが、そして、新約聖書の時代を開くにはイエス、そして、その後のイスラムの時代にはムハンマドという人物が登場したのです。

そこから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの宗教集団が生まれ、それが今日の世界の大きな問題の根にあります。それは、別の見方をすると、ひとつの神の問題を解決するためには、三つの宗教集団の対立の歴史が、何を人類に教えているかという問題に直面するということです。一神教の文化圏の人間は、この問題を解決することができません。なぜなら、その歴史は、神の名による戦いにほかならないからです。この一神教のひとつの神の主張が時代と共に変わって行く理由は、人間の側の変化に対応したものだというのが、精神界の説明で、ひとつの神格による人間界への関与の形の変化というものです。つまり、モーゼの神も、イエスの神も、ムハンマドの神も、日本語でいうなら一柱の神ということです。この一神教の神の神格が、どのように日本史に移されたのかというと、モーゼが大国主、イエスが応神天皇、ムハンマドが聖徳太子という配置になるのです。ほとんどの日本人が、聖徳太子の名が厩戸皇子(ウマヤドノミコ)とあるところから、イエスのことだと考えますが、時代的にはムハンマドの時代に一致することが分ります。つまり、二千年のイエス、三千五百年前のモーゼは、日本列島上では、神話の時代の話として伝承されているということです。
これらの話は、それらの人物のたましいが、すでに神界に座を与えられているので、コンタクトに成功すれば、この私の説明が正しいことを確認できるはずです。そして、この一神教の歴史が伝えている、現行人類のテーマは、モーゼと日本の大国主の存在のテーマが、新しいクニづくりであり、そのクニづくりに伴なうマネーというものを生み出す仕組みということが分るようになります。
一神教の神も、日本の神々も、やがて、すべての民が必要に充分なものを得て、自らの人生の目的に向き合える、理想のクニを人間界に約束しています。
そのクニづくりがはじまるのが、いま進行中の最後の審判の後の時代ということなのです。
この宇宙は、神的意識体が、精神的なエネルギーの場で完成した物語を現実化する場なのです。いまの地球のほとんどの人間が思い込んでいる、「マネーは、神に反するものたちの手にあるもので、それは永遠に変わらない」というストーリーは、この闇の宇宙のルールに過ぎないのです。過去と同じその闇の中で生きるのか、神が約束した、光の中で、ミクニやミロクの世と呼ばれる時空で生きるのか、二千二十六年から本格化する審判の時代とは、その選択をする時ともいえるのです。

神紀五年(二千二十五年)十二月四日 積哲夫 記

この光文書に合わせて通信が届いているようですので、掲出しておきます。


二千二十五年十一月二十五日(火)十九時二十五分から

神の子の そだつとき(季)
まかれた 種が 稔るとき

かむやらはれた 神の子の
誓いをはたして まもるとき

神の田の 水面に
凪が やどるとき

いせたるかみの
なみだも かわかん

おもひいづる いせたるみちの
ながければ こそ
まちたるひこそ
おもひこそすれ

またれたる いほのちかいの
まもられて

(いせ)

ひらき よ の
みよ いつまでも
あづきなく

かけたる つきひの
ながきをおもはば