Vol.571

メディア・ニヒリズム

いま進行中のことは、日本の戦後をコントロールしてきたメディアの嘘が、その主張する言葉や映像を通して、多くの日本人の意識上にあがるという二十世紀までの人間社会では想定し得なかった事態であると、私は認識しています。
選挙の報道を通して、これまでのメディアの権力がいかに情報操作によって行使され続けてきたかがわかります。そして、それらの作り手側の人間のたましいのレベルが、ほとんどの場合、無神論者であり、ニヒリストであるということが推定できるほど、悪意に満ちたものを発信しているにもかかわらず、それは誰にもわからないと信じてメディアの人間は生活しています。
ここで、人間のたましいの話です。日中戦争において、百人切りというありもしない記事を書いて、その記事に名前が書かれた日本軍の二人の将校を、戦犯として死刑に追い込んだ新聞と、その記事を書いた新聞記者は、人の世では罪を問われていません。
さらに、私の知っている靖國神社の話です。精神界は、あの戦争で死んだ三百万人を超える日本人のたましいを、光の領域に引き上げるために、人間界にはたらきかけ続けてきました。今上陛下だけではなく、無数の生きている人間のたましいにそれは伝わり、いまも、はたらき続けている生きている人間もいれば、光ある者として、死霊のなかではたらく、英霊と呼ばれるものもいます。
昭和天皇は、終戦の詔書において、「ついにわが民族の滅亡…」という言葉を使われています。その「おおみこころ」は、おかくれののち、自らの意志で責任をとられて、闇の底にくだられましたが、あの昭和の戦争で死した靖國の英霊たちにとっての大元師は白馬に跨る昭和天皇でなければならないのです。
私は、神武天皇二千六百年大祭のあった二千十六年の奈良の神武天皇陵において、その白馬に跨る昭和帝と、光軍、皇軍ではなく光ある者たちの光軍の大軍団の姿を、幻視または霊視させられています。このことは、ある種の能力を持つものがその場にいて、同様のものを見て体験しているので、証言者のいる精神界の事象として、ここで初公開しますが、何が伝えたいかというと、靖國で会おうといって死んだものたちは、靖國で再会し、彼らのたましいは、人間界にはたらきかけているという事実です。
いまの日本のメディアの多くは、死んだら終わり文明の代理人として、この日本社会に、物質万能の物欲の価値観を宣伝し続けていますが、その情報を発信している主体の人間も、やがて死ぬのです。
死んだそのものたちのたましいは、どこへ行くのでしょうか。
かつては、宗教が教えたあの世へという道がありましたが、いまやそれらはありません。
具体的にいうなら、死んだら終わり文明を信奉するものたちは、その希望通り、死んだら終わりの道へ進むのです。それは、ニヒリズムのブラックホールといえばいいのでしょうか。この世には、すでに、それらのものたちのたましいが、自業自得として、ブラックホールに閉ざされていく姿を、ヴィジョンとして見せられているある種のセンサーを持っている人間が一定数、存在しています。
そうした人間存在の根幹にかかわる情報系こそが、精神学が伝えている、エネルギー系なのです。現行の文明が、到達するのは、そうした、物質に先立って存在したエネルギー系のなかに未来の情報があるといういたってシンプルな結論です。それを知るために、途方もない時間と、人間の血が必要でしたが、それもまた仕組みなのです。嘘をつき続ける仕事をしている人間は自分のたましいに、死んだらどこへ行くのですかと問うてみるべきでしょう。死んでからでは遅すぎるのです。

二千十七年十月十九日 積哲夫 記