このタイミングで、日本人の中から無数の救世主を生み出すことになるセイバースクールがスタートするのです。
聖書の時代が終わらなければ、この地上から戦争はなくならない、ということに気付いた人間が、セイバースクールに入れば、本当に神は、あるいは精神界は、その日、その時の後に、御国と呼ばれる時代を用意していることを知るはずです。
神は約束を果たされるのです。
聖書の時代が終わるということは、宗教の時代も終わる、ということです。
そのために、神、または精神界が、すべての宗教的儀礼も刷新していることも、このセイバースクールでは学ぶことになります。とくに、日本に伝えられてきた、まつりぬしという言葉に込められた、神をまつる、まつりの意味に人の世のまつりごと、と同時に、人の世を去るまつりごとも含まれることを知ることになります。
日本の伝統的な仏式のお葬式では、仏僧が、送られることになるご遺体に触れて、送りをすることはありません。同じように、死はケガレとする神道でも、死者の送りは、儀礼的なものです。その点、セイバースクールで学ぶ、送りは、送るべきたましいと語らいながら、この世の姿であった身体との別れを手助けし、光の門への道を歩むための道案内をするという、究極のまつり、なのです。
これらのことは、すべて精神界が用意したもので、私は、その伝達係としての役割を担ってきただけです。そして、重要なことは、このセイバースクールを主宰する精神学教育研究機構というものは、精神学を学んで、その能力を開花させた会員の方々が運営されるものであるということです。
そして、そこで教える人間は、教師ではありません。本当の教師は、その人間の主たる神だからです。精神学を教えるものは、先人であり指導者でもありますが、彼らは、後から来るものの方が優れている、ことを知っているからです。
とりあえず、私が天命によって精神学協会というものを、この世に生み出して、ここまでのハタラキで、セイバースクールの指導員たちを育てられたというところに、この道の正しさが証明されたともいえます。
この先にあるのは、日本人は救世主であるという、私が伝えてきた予告の現実化、つまり、その日、その時を卒業するものたちの時代ということです。いまのこの世は闇ですが、ひとりひとりの意志で、その闇は消滅するということです。
神紀五年(二千二十五年)四月三日 積哲夫 記
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