これまでの歴史では、その聖書の預言の現実化が起きてきましたが、今回、このまま行くと、ファティマ第三の預言は、現実化しないまま、キリスト教文明は終了します。その預言のために重要なのが、ロシアという国で、プーチンのロシアは、イスラエルに攻め込んで、聖書の預言が現実化するかも知れないと、ついこの間までは考えられていました。
ところが、ウクライナがロシアのクルスク州に攻め込んで、ロシアの軍事力の正体が暴かれたことで、それらの予測は現実化しそうにもないということになりつつあります。それは、イスラエルとイランの関係でも、同じで、イランはイスラエルとの全面戦争には踏み込めないことがはっきりしています。ただ、これがイスラエルとアメリカの勝利かというと、そうではなく、聖書の物語の舞台であった地球の歴史は、終わりつつあるというのが、私の知っているストーリーです。
ユダヤ・イスラエルというものが、これまでの歴史の中に大きく存在しているように見えたのは、この歴史とは聖書の物語の投映という部分があったためで、預言や予言の時代を終わらせた何かがあったということです。
これが日本の仕組みの発動の結果だったということに人間が気付くのは、まだまだ、先のことですが、すでに、この世は、ポスト・ファティマの時代に入ったということです。
この人間世界には、スケジュールというものがあるのです。
日本の天皇は、第百二十六代で終わりという伝承と、ローマ教皇は、有名なマラキの予言では、第百十一代のベネディクト十六世で、終わり、となっています。
ベネディクト十六世は二千五年に教皇になり、二千十三年に教皇の座を離れ、二千二十二年の十二月三十一日にこの世を去りました。
預言や予言の時代が終わりつつあるということの意味が、ここから読みとれるでしょうか。
正しい神界によって、この世に置かれた預言や予言は、ある意味、成就していて、その役割を終えたともいえる、ということです。
少なくとも、精神的なエネルギーの場において、それらのことが生じており、この世の現実には、違った形で投映されてきたと考えてもいいのだと私は伝えられています。
物語の進行のためのシナリオは置かれていますが、現実はシナリオ通りにならず、それでも進行していくということです。
なぜ、この二千二十四年の八月十五日が、精神界の情報で重要視されているかというと、この日本は、二千二十五年の八月十五日を境に、新しい時空に移行するからです。それまで、日本はアメリカの属州であり続けるのですが、その先の政治や経済を日本語で考え、発信できる人材の用意を整えなければなりません。私たちの精神学を学ぶ道を広き門とするために、何をすべきなのかが問われているともいえるのです。
神紀四年(二千二十四年)八月二十九日 積哲夫 記