光文書

(ヒカリモンジョ)

Vol.800+30+86

将門 光圀 鉄之介

この二千二十四年五月十九日、私はあることを知るために、茨城県にある酒列磯前(さかつらいそざき)神社と大洗磯前神社を訪れました。
西暦の八百五十六年に、常陸国鹿島郡の大洗磯前という地に、神が現れたとされます。その神は、「われはオオナモチ、スクナヒコノミコトである。昔、この国を造り終えて、東の海へ去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた」との託宣をし、これによって、大洗の磯前神社には、大己貴命が、酒列の磯前神社には、少彦名命がそれぞれ祀られることになったと伝えられています。
いうまでもなく、オオナモチという名は、オオナムチであり、オオモノヌシ、オオクニヌシの別名です。
その神が、共に国造りをしたスクナヒコナと共に、茨城県の海岸に上陸したのが、八百五十六年です。
ここから先は、私が知らされた、その神のはたらきです。
関東では、あの平将門が、西暦の九百三年頃に生まれたとされ、九百四十年には、新皇の宣言も空しく、敗死しています。将門が、新しい天皇であると主張した背景には、八幡神と菅原道真公の神託があったと伝えられていますが、実は、オオナムチ、スクナヒコナの神が懸ったというのが神界の情報です。
そして、その神が次に懸ったのが、水戸光圀で、この光圀が、酒列磯前神社と大洗磯前神社を今日の姿にするはたらきをしたのです。その光圀は、西暦千六百二十八年に生まれ、千七百一年に没していますが、千六百五十七年に、あの大日本史の編纂に着手しています。この大日本史が完成したのは、なんと千九百六年(明治三十九年)だったとされていますが、この大日本史なしに、幕末の日本の政治思想を語ることはできません。水戸藩は、この大日本史の編纂事業と共に弘道館という藩校での人材教育でも、明治への流れを全国に広げる影響力を発揮しています。

この水戸藩の政治思想のひとつの結果として、大老井伊直弼を暗殺する桜田門外の変というものが起きます。これを実行したのが、関鉄之介を中心とする水戸の脱藩浪士十七名と薩摩藩士有村治左衛門の十八名でした。この関鉄之介にもオオナムチ、スクナヒコナの神が懸っていました。
ここで突然、私の出自について記しておきます。積哲夫は、父の積賢治が奉職していた水戸にあった刑務所の官舎において出生しています。
そして、母の伝承によれば、薩摩の有村家との繋がりもあったとのことです。子供の頃から、有村治左衛門という名を聞かされ、大人になって桜田門外の変で関鉄之介の名を知った時に、そこに天命を感じたのは否定できない事実です。天の配剤とは、このような運命を用意されるということです。
話を戻します。関東における、モノヌシの用意が、このように、千年以上も前からはじまっていたということを、日本人に伝えるべきタイミングが来たのです。
神が懸ってこの世に出た大日本史の目指した国のあり方と、いまの日本は、ここまで違うものになってしまったため、改めて、神が関与した国造りをしなければならないという宣言を出すことにしたということです。
本当は、多くの人材を育成していた水戸藩は、桜田門外の変以降、藩内での粛清で、そのほとんどを失いました。その彼らのたましいにも、いま復活の時が来たということです。これが、日本列島に用意された最後の一厘のプログラムであることは、ここから先の日本の歴史が証明することになるはずです。
そのひとつの証左が神田明神です。
神田明神のご祭神は、大己貴、少彦名、そして将門という三神なのです。その三神が、これからの日本と世界を導くために動こうとしています。これらの報告は、いまの東京政府が幕末の江戸幕府と同じものになったと、多くの日本人が感じはじめていることと、神のプログラムの連動を示すものだと理解していただければ、何かが見えてくるはずです。

神紀四年(二千二十四年)五月三十日 積哲夫 記

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