どういうことかというと、三種の神器とされる、玉と鏡と剣というものは、「最終知識」の愛と勇気と正義という光の三位一体に対応しているのです。
物語として、人間には、愛と勇気は教えたが、神の正義だけは最後の最後に自分で見付けなければならないものというテーマが、「最終知識」には置かれています。
この正義という文字は、神の世界からいえば、聖義なのです。その聖なる義を行なうために、精神学を学ぶ人間には、あるタイミングで、光の剣が授けられてきました。
この授けられた光の剣を使って、この世の闇の処理をし続けた者のみが、このアークの蓋を開くことができるという契約があったのです。
聖書に記されているアークには、神の命令で、その蓋の上に向い合ったケルビムが、配されています。精神学を学んで、この世の闇と戦い続けたものは、この二人のケルビムの間に、神界から授けられた光の剣を差し込むことで、ケルビムが、その光の剣の働きの情報を読み取って、その蓋は自ら開き、その中味を、自らのものとすることができるという仕組みです。いまの日本列島上の日本人には、ひとりひとりが救世主となれる可能性があるということの背後には、このような地球の精神界の三千五百年に渡る用意があったということです。
これによって、一神教の文化圏によって、これまで形成されてきた世界の歴史を総括して、次の時空に移るための精神的エネルギー領域での準備が整うことになります。
この人間の世の富を追い求める時代が、これから終わりに向かいます。
富は、天に蓄えよという言葉が、まさに、現実となる世がはじまるのです。
その出発点に立つのが、二千二十五年の八月十五日からの日本であるということです。ひとりひとりが、神のアークを授けられて人間をしているということを知ったところから、次の世ははじまるのです。
神紀五年(二千二十五年)八月七日 積哲夫 記