その陵墓の場所が、なぜか鎌倉時代には不明となり、その後、豊臣秀吉の伏見城の築城エリアが、この桓武天皇陵を含んでいたため、完全に歴史から消えてしまったのでした。
秀吉の朝鮮出兵は西暦の千五百九十二年であり、この伏見城の築城開始は千五百九十四年とされます。
桓武天皇は、最澄や空海などの仏教の最新情報を積極的に受け入れた人物で、平安京は、それらの仏教的結界にも守られていました。その中で、京の南東伏見にあった桓武天皇陵と北西にあった嵯峨天皇陵は、重要なポイントであったはずですが、不思議なことに、その嵯峨天皇陵も歴史の中で不明になっており、いま天皇陵とされているものは、幕末という特別な時代に定められたものです。
江戸幕府は、伏見城を廃城とし、明治政府は、この地に、明治天皇と昭憲皇太后の陵墓を作ることになります。たぶん、ここからの信号が、刀剣から発されていたのです。それと同時に、私が大阪城に興味を向けざるを得なかったのは、もともと、戦前の大阪城のエリアにあった陸軍工廠の地場のエネルギーが、豊臣家滅亡に到る大阪夏の陣の記憶に繋がるものであり、それを何とかしないと、日本の未来が暗いままというイメージがあったためなのです。それらのことが、今回の桓武天皇の復活による情報開示によって、明らかになりました。
日本の国是は、何度もお伝えしているように、原則、鎖国です。
それを破って、国外進出を目指したのは、豊臣の時代と明治政府以降の時代です。
織田、豊臣の時代に、キリスト教の宣教師によって、対外進出の政治的動機や世界観が伝えられたのは事実でしょう。その最初の動きは、秀吉の死によって終りましたが、次の明治政府の動きは、日清、日露、朝鮮併合、満州国建国というように、昭和二十年の敗戦に到る一連のストーリーとなります。そして、このタイミングで、嵯峨天皇と桓武天皇という平安京の秘密を作った存在が復活したということは、実は、世界から狙われていた平安京を守る、あるいは取り戻す動きに向って、日本の歴史が新たに作られることを意味しています。そして、どうやら、この動きは、地球規模の大変動と結び付いていると同時に、宇宙的な情報開示にも関連していると考えられるのです。どうやら、これらの事象が、日本の覚醒のための知の入口として用意され、死んだら終わり文明というものから、日本人が次の文明を担う動機付けとなるよう準備されたものだとやがて明らかにされるはずです。
これによって、歴史が勝者によって作られる時代が終わり、精神界にある真実にアクセスすることができる人間によって、新しい人間の時代がはじまるのです。冒頭にも記したように、明治からの日本の終わりは、この情報開示によって確定したと、私は考えています。
神紀四年(二千二十四年)一月二十五日 積哲夫 記