この二千二十五年に、日本列島を日本神界が取り戻す動きに連動して、いままで沈黙していた日本の土地神が、日本の土地をガイジンに売り渡す反日日本人に対しての怒りを爆発させつつあります。日本列島は、日本の神々のワケミタマの持ち主である日本人のものであり、それ以外のたましいのルーツを持つ人間の立場は、客人というものです。
これが、日本神界の見解なのです。敗戦後は、一神教の記憶を持つたましいを受け入れましたが、その日本人のワケミタマは、日本神界が与えたものです。
日本史を見てみれば分りますが、滅亡した百済の人間が、日本に同化するのに三百年の時を要しています。それほど、日本に移住した人間が、日本神界に承認されることはハードルが高いのです。このハードルを徹底的に下げたのは、いまの政治で、政権与党であれ、野党であれ、この戦後政治の負の遺産の責任追究は、精神界ではじまり、それはやがて人間界でも起きることになっています。なぜ、それがはじまるのかというと、この五月の十一日に、最後の審判に向けて、一神教、とくにキリスト教の死者たちの蘇えりが報告されているからです。
日本の霊界とは違い、キリスト教の文化圏では、人生は一度きりで、最後の審判の前にすべての民は蘇えって、神の国に入るものと、地獄に落とされるものに分けられると、教えられてきたため、死者の多くは、今まで静かにその日、その時を待っていたのです。それが、この五月十一日から、蘇えりの時を迎え、これから、いままで死者に無関心だった、キリスト教圏でも、「ワレ、蘇エリ」というメッセージを受ける人間が増加することになります。それは、当然、日本でも、同じことが起こり、千九百四十五年の敗戦とその後の不正義というものに対する真実の追及が、霊界からの人間界への告発という情報提供で、すでにこの世を去ったものたちへの裁きを求めるという、心情が強まることになります。
いまのこの世の法は、生きている人間だけを対象としています。そこに本当の正義はありません。実は、人間の歴史の中では、この世の王や裁判官にではなく、ほんとうの裁きは、天または神が下すものだという暗黙の了解が、常にあったのです。そして、そのために祈りつつ、非業の死をとげたたましいも、精神界には無数に記録されているのです。
いまの私たちが生きている、この物語宇宙には、復讐権というものが正当な権利として、あり、この実行のために、堂々めぐりの覇権争いが生じています。
この復讐権というものを、放棄したのが、戦後の日本と日本人で、これを信じないアメリカは、永遠に日本を恐れなければならないというカルマを背負うことになりました。そして、もし、その日本列島が聖書の神が最も祝福した土地だと知ることになれば、それは、アメリカの信仰者のトラウマとして、永遠に残ることになります。
アメリカが、広島と長崎に落とした原爆というものは、それほどの重さを未来に課すことになるということです。これに福島における原発事故の原因が、アメリカのGE社が日本の自然条件に対応しなかった設計上の欠陥にあるということで、三発目の原爆と見るならば、アメリカは日本列島というご神体に、イエスの十字架上の釘の数と同じ数を打ち込んだことになるのです。その日本列島の意識が、この二千二十五年というタイミングで復活し、その歴史と現実に対する責任を問うことで、取り戻す意志を人間界に知らしめることになります。何が起きるのかというと、神の意に反して、このクニの土地をガイコクに売ったものは、祟りというか、神々の呪いを受けることになるはずです。生きている人間が末代まで呪ってやるという、あの呪のエネルギーと違い、神や神々の呪いとは、そのたましいに書き込まれるばかりでなく、そのDNAにも書き込まれると考えた方がよいのです。同じことは、日本にある仏界でも、進行中のようで、宗教法人をガイジンに売るものたちが増加している中で、神や仏を怖れぬものは、それにふさわしい報いを受けるということを、これから多くの日本人が知ることになります。強欲を日本列島は許さず、この地球が、人間の所有物ではないことを、思い知るまで、試練があるということです。
神紀五年(二千二十五年)五月二十二日 積哲夫 記