#45 大東亜戦争の遠因を探る ~その9~ 大東亜戦争開戦の日に思うこと

本日、十二月八日は大東亜戦争開戦の日です。

先の大戦を振り返ろうと調べていくと、なぜそうなるのか?が、わからないことがたくさんあり、よくこの状況で戦ったものだと思います。
戦史に関しては、さまざまな専門家が研究し、さまざまな目線で解説を試みてくれています。
諸説ありますし、立ち位置によって評価もいろいろです。

右翼的な方が紐解けば、全体的には軍の行動を庇う傾向の強いものとなりますし、左翼的な方が紐解けば、すべて日本が悪だったというストーリーになりがちです。
私は左翼的な自虐史観は間違っていると思いますが、右翼的な考え方にも全面的には与(くみ)したくないという気持ちがあります。

それよりも、これだけの犠牲的精神をもって、後世の私たちにデータを与えてくれているので、きちんとデータを読み解き、今後の日本がとるべき針路を考えるために役立てることが大事なのではないでしょうか。

十二月八日早朝(現地時間十二月七日)、日米開戦の火蓋を切ったのは、真珠湾攻撃を行った海軍の行動による印象が圧倒的で、開戦はここから始まったのだとずっと私自身思っていましたが、ある友人が、陸軍の南方作戦のほうが先だったと教えてくれました。

—————————–  ここから引用  Wikipedia より抜粋

大本営はマレー上陸とアメリカの属領であるハワイに対する真珠湾攻撃との関係に考慮を要した。
陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件とし、海軍も真珠湾での奇襲に期待をかけていた。
しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。
マレーとハワイとでは十八時間の時差があるため、双方を両立させるのがマレーの深夜、ハワイの早朝という作戦開始のタイミングであった。

一九四一年十二月八日午前一時三十分(日本時間)、佗美 浩(たくみ ひろし)少将率いる第十八師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。
アメリカ領ハワイの真珠湾攻撃に先立つこと一時間二十分、太平洋戦争はこの時間に開始された。

—————————– ここまで

この、マレー作戦(馬来作戦、日本側作戦名「E作戦」)が、日本の対英米開戦後の最初の作戦となりました。
世界史的には、この攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したとされています。

マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら五十五日間で千百キロを進撃し、翌一九四二年一月三十一日に半島南端のジョホール・バル市に突入します。これは世界の戦史上まれに見る快進撃でした。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切りました。

日本軍の目的地は、マレー半島の南に浮かぶ小島のシンガポールです。
シンガポールは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとアジアを結ぶ重要な地点で、ここに当時イギリス東洋艦隊の拠点が置かれていました。
イギリスはシンガポールに強力な要塞を築いたので、日本軍は海からの攻撃を諦め、比較的防御の弱いマレー半島から南下し、シンガポールに侵入することを計画しました。

マレー半島での戦いは、ジャングルの悪路も多く、道を切り開きながら軍を進めることもありました。また、イギリス軍は退却しながら橋や道路などの主要なインフラを破壊していったので、日本軍はその修理と進撃を並行して続けました。工兵部隊による進軍路の整備が、作戦の成功の大きなカギとなりました。

二月八日、日本軍は猛烈な砲撃と戦闘機による爆撃をシンガポール島に対して行い、その夜、夜陰に紛れて日本軍はマレー半島とシンガポールの間を隔てる「ジョホール水道」を渡りました。上陸後も日本軍とイギリス軍の間で激戦が続きましたが、二月十五日、この方面の作戦の総指揮官である、日本陸軍第二十五軍司令官山下奉文(やましたともゆき)中将と、イギリス軍総司令官パーシバル中将との間で会見が行われ、マレーのイギリス軍は日本に無条件降伏しました。

日本軍はシンガポール陥落までを百日と予定していましたが、開戦から七十日で達成。一カ月あまり早く作戦を成功させています。

一方、真珠湾攻撃を策定したのは、日米開戦に明確に反対を表明していた山本五十六海軍大将・聨合艦隊司令長官でした。
そして、現場の指揮官である第一航空艦隊司令部の南雲忠一中将に真珠湾攻撃の命令を出しました。




#4 見つけた宝物。に載せる際、上記の大日本帝国海軍・電文画像の端的な説明を、積さんからいただきました。

  ①連合艦隊旗艦、戦艦「長門」から、「新高山登レ」が発信され、
  ②真珠湾攻撃隊の旗艦だった、空母「赤城」から、「トラトラトラ」の返信があった。

山本五十六長官は、対米戦争には反対でしたが、もしも、どうしても開戦するというなら、日本軍の力量からして半年間しかもたないので、半年でけりをつけられなければ負けると考えておられたようです。
軍の装備や資源の備蓄量などを考慮して出したシミュレーション結果です。
その戦局予測は、まことに正しいものだったと思います。

開戦がやむを得ない段階に至り、やるからには最少の被害で最大の戦果を挙げなければならないと考えた結果、六隻の空母を中心とする大機動部隊で広い太平洋を何日もかけて横断し、世界の戦史上前例のない空母艦載機の大規模集中活用という斬新な大作戦を実践指示しました。

出撃したのは南雲忠一中将率いる機動部隊でした。南雲中将本人は、南方作戦を優先すべきと考えていたため、真珠湾攻撃の作戦段階では賛同できないという意見を述べていました。
南雲機動部隊は、連合艦隊司令部からワシントンでの日米交渉が成立した際には、途中から反転し帰投するよう命令を受けていました。
しかし交渉は決裂し、連合艦隊司令部から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号通信を受けます。
昭和十六年十二月八日、午前六時に真珠湾へ向け、零戦、九九式艦爆、九七式艦攻の戦爆連合、第一波百八十三機と、一時間おいて第二波百六十七機の計三百五十機が飛び立ちました。
行われてしかるべき扇状索敵が行われた形跡はなく、目視に頼った攻撃であったと考えられます。

この攻撃は成功しましたが、炎上する煙によって視界は悪化し、敵方も反撃を加えてくるなか、結局のところ燃料タンクも破壊せずというように、ハワイという軍事的に重要な基地への攻撃を、まことに中途半端な形で終えています。この基地が瞬く間に復活したことが、ミッドウェーの敗北に繋がるのです。
山本長官は、もともと真珠湾攻撃に賛同していなかった南雲中将に、全体図としての攻撃計画を適切に、正しく伝えていたのかどうか、という疑問が残ります。
双方にコミュニケーションの問題があったのではないか、とも考えられます。

真珠湾攻撃は、隠密行動によってアメリカ政府に宣戦布告をしたらすぐに実施する手はずの「奇襲作戦」でした。
しかし、よく言われる真珠湾攻撃における最後通牒の遅れは山本長官の責任ではありません。

もともと最後通牒や宣戦布告は政府の権限・責任ですが、山本長官ご自身は参謀に「最後通牒は攻撃前に相手に届く様になっているか」と何度も確認をしています。現実的に遅れたのは外務省とワシントンの日本大使館の怠慢によるものでした。

大使館員の手違いがなく、攻撃前に宣戦布告通告していれば、少なくともルール違反という批難をうけることはなかったはずでした。
奇襲作戦自体はルール違反でもマナー違反でもありません。宣戦布告と同時に攻撃をすることができたなら「日本は汚い攻撃をする」という批難は当たらないことになります。
どちらにしても、アメリカ上層部側は、来襲することは事前に暗号解読で知っていましたが、攻撃内容についての予測は大きく異なっていたようです。

「リメンバー・パールハーバー」という言葉は、もともと開戦時現地においては「いついかなるときにも油断は禁物である」という意味で記憶にとどめようとした標語でしたが、アメリカ本土のプロパガンダで大々的に意味するところが「日本を許すまじ」という方向へ誘導されます。
「オレンジ計画」に見られるとおり、そもそも排日的であったルーズベルト大統領にとってはこの奇襲攻撃が米国民に対する最適な宣伝材料となり、ひたすら憎い敵を討つためのモチベーションを高めるべく使われたといえます。

いまにして思えば、中国共産党と近代アメリカの戦略は、グローバリズムにおいても、背景となる指向性の点でも、かなり類似点が多く、合意しやすいものであったはずです。
そして、実際にも、蒋介石夫人となった宋美齢の暗躍もあり、米中は排日で一致協力して、日本叩きに邁進しました。
(参考: #30 ポスト・グローバリズムのその先に向かって ~その2~ )

山本五十六長官の作戦に関しては、半年後のミッドウェー海戦で四隻の空母、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」を失い敗北、これもなぜ負けたのか、よくわかりません。
作戦の失敗も含め、複数の不可解な行動、戦略があったようです。
ここで負けたことから、その後、戦況はどんどん悪化していきました。

ところで、大戦における軍人の働きには、高潔な魂による美談がたくさんあります。
同時に、同じ靖國神社に祀られていて良いものなのか?と疑問が生じる愚劣な魂のお話も少なからずありました。

命がけの時代、本来の魂のあり方が問われる時代を背景に、さまざまな物語があります。

軍法会議にかけられることもないままに、東京裁判においても罰せられず、戦後まで生き延びた、愚行を犯した上官たちが数多く存在します。
東京裁判自体、勝者が敗者を裁くという、とても裁判とはいえない一方的な断罪でしたから、東京裁判の戦犯指定は本来の善悪や責任の重さとはイコールではありません。そこで罰せられた方々の多くは、本来罪を着せられるべきではない方々です。

その一方で、リーダーが無能なために思慮の足りない無謀な作戦に走り、失った人材も少なくないのです。

なかには部下たちを激戦地に残したまま、芸者を連れて酒を持ち出し敵前逃亡を試みた陸軍中将もいます。
陸軍初の特攻隊を出撃させた人でしたが、上官にことわりもなく視察のためといって勝手に逃げました。
敵前逃亡だけでも厳罰が下ってしかるべきなのに、どういうことでしょうか、恥知らずも極まれりという愚将ぶりです。(富永恭次陸軍中将)

無謀な戦略をたてて、実行を強いたうえに、三万人もの兵士を餓死、戦病死させて最期まで「自分は正しかった、下士官が悪かった」と言い張り、葬式にも生前用意したビラを配らせたという陸軍中将もいます。(牟田口廉也陸軍中将)

自分がエリートであることを鼻にかけ、常に部下に冷酷に接し、前線で戦果が上がらないと指揮官たちに対し他の将兵たちの目の前で殴る蹴るの暴行を加えたり、自決を強要したり、統制を崩壊させた愚かな陸軍中将もいました。(花谷正陸軍中将)

最重要軍事機密を奪われるという失態(海軍乙事件)を犯しながら、シラを切り、戦犯として三年の禁固は受けたものの八十歳まで生きた海軍中将もいました。(福留繁海軍中将)

愛人であった川島芳子をスパイにし、東京裁判においては連合国側の証人となり、日本のユダと呼ばれ、戦後は山中湖に隠棲した陸軍少将もいます。(田中隆吉陸軍少将)

昭和天皇は、東条首相について、評判を落とした原因は、「田中隆吉とか富永(恭次)次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使った事」と述べられています。(「昭和天皇独白録」より)

山本五十六元帥・海軍大将、黒島亀人海軍少将、南雲忠一海軍中将、寺内寿一元帥・陸軍大将、辻政信陸軍大佐、私にとっては濃いグレーの存在は、ほかにも存在します。
靖國神社の英霊たちの名誉のためにも、きちんと知って、理解し、学びたいと思います。

どの時代にも、いまも、人格を磨いてゆくことは、それぞれの人生の大目的だと思いますが、繰り返しを避けるために、酷いことをした人たちの行動から学ぶことは多くあります。
反面教師として生かしながら、いま私たちが生かされてあるこの現場を大事にしたいものです。

特攻に散った若く気高い魂たちや、硫黄島で応戦した栗林中道陸軍大将以下の将兵たち、インパールに引きずられ惜しくも散った将兵たち、南方の激戦地で戦った将兵たち、ひめゆり、白梅の乙女たち、ほかにも数々の戦没者たちの遺志を継いで、この日本に生まれた私たちは、百年後も日本が健全に続いていくようにと、判断はしっかりしていかなければいけないのではないでしょうか。

分水嶺にあるかのようなこの時代、意図してか意図せずにかはわかりませんが、間違った情報もあふれています。
虚心坦懐にして賢明に見極めることが大切です。

平成二十九年十二月八日

阿部 幸子

協力 ツチダクミコ

協力 白澤 秀樹