光文書(ヒカリモンジョ) Vol.102
遠い世界の光
私たち日本人も、この地球上の、ある時間帯に生きるものとして、聖書の神の子らであることに変わりはありません。
すでに公開されている「最終知識」というものが伝えていることは、この2000年間の神の物語が、終わる日が来るということなのです。そして、いま生きている人間は、その神の子らとして、その神やその神の子である神々や悪魔といった精神界の意識体の容器として、責任を担わされるということを、イエスの十字架は象徴しています。人間として存在したイエスは、それまでの人間の罪を背負ったかもしれませんが、イエスを十字架にかけた人間の罪は、十字架後に生まれ、その意味を知ったひとりひとりの人間が背負わなければなりません。ブッダも人間であった、イエスも人間であった、ムハンマドも人間であった、という出発点を持てば、それが理であることは当然なのです。
その責任を放棄するために、過去の人間は神や教会を必要とし、あるいは、帝や王を人間社会の支配者として受け入れてきたのです。このクニは、明治維新という転換のあと、権力者の誰もが責任を取らないで済むシステムの構築につき進みました。大日本帝国憲法というもので不可侵とされた天皇制を、このクニの歴史とつき合わせて考えていくなら、天皇不可侵とすることで、自分たちの保全をはかるために、そういうシステムを必要とした人間グループによってそれがつくられたのが明白になるはずです。いまの憲法もまた、見方を変えるなら同じ動機づけで、つくられています。ペリーの黒船から、ここまでの歴史は、このクニが主人公なのではなく、このクニの伝統にはない異質なパワーの投入によって生じたというのが、正しい認識でしょう。精神界からは、そういう情報が、このクニの人間世界に伝達され続けてきました。それを無視し続けてきた結果が、現在のこのクニの姿です。
いまの世界は、イエスを十字架にかけた、イエスと同じ氏族のユダヤ人とイエスの教えを継承したと信じるキリスト教世界、そして、アブラハムの子孫であるムハンマドから生じたイスラム教世界という一神教の文化が、行き詰まり、崩壊する物語の只中にあるのです。
そのプロセスを演出しているのは、宗教的パワーより、もっと現実的なマネーの論理のようにも見えます。しかし、それらは、聖書的世界で予言され、予告されてきたものを、現実化しようとする人間グループの働きなしには、起こり得ないものでした。
これから先、神の名によって無知な人間を支配し続けようとするものを、すくなくとも私をつかさどる存在は、否定し、そのために私のハタラキを必要としたのです。ここまでが、神話的に用意された私の仕事です。そして、ここから先のハタラキを担うことを望む人間が、次の時代の光の物語の主人公になるのです。その光の持つ、まだ人間が知らないポテンシャルを教師として伝えることが、いま私に与えられている使命だといえるでしょう。
いま、なぜこんなことを記述しているのかというと、これから一年間の正会員プログラムを終了した会員のなかから、急速に、その人間に与えられたたましいの物語に対応した光の持つ特性の開花がはじまるからです。
すでに何人かは、ある種の超能力といっていいレベルの領域に達しています。
ハタラキを希望する人間には、ハタラクための能力も与えられるという単純な原則の先に、人間のもとたる正しき神の姿を見ることができるはずです。
なぜなら、私がいい続けているように、すでにあなた方は神々の座に登り、その上位の存在とコンタクトできる可能性を持っているからです。私が伝えられている遠い世界の光のハタラキは、悪意を持つ人間に支配される闇の世界にも審判のルールが適用されることをあきらかにしていくでしょう。
死んだら終わり文明という、何者かが創造した偽りの世界に生きている人間は、その報いを受けるのです。
人間は死にます。生命ある存在のかたちは、それによってたましいと呼ばれる意識体と物質とにわけられます。
この死の様式にこそ、審判の本質があることに、そろそろ人間は気づくべきなのです。ここから先、次のステージに進むことを希望しないものは、自ら進む権利を放棄したことになるからです。
2008年8月26日 積哲夫記
