Vol.598

英霊

日本の歴史のなかでは、生きた人間が、やがて神としてまつられるということが、普通にありました。ただ、人間の側がたとえ神社をつくったとしても、精神界において、神格を与えられるかどうかは別問題で、たとえ、生前に生き神様のように奇蹟の数々を起こした人物であったとしても、霊界に閉ざされるものがいるのも事実です。ここで、私が知っているこれまでの日本神界の秘密の一部を開示すると、かつて人間であって神格を附与されていた代表的な存在が、菅原道真、つまり天神さんで、新しいところでは、明治天皇もそうです。ところが、イエスの存在を日本の歴史に移したともいえる聖徳太子という神格の存在を私は知りません。たぶん、そこには、このクニの仕組みの秘密も隠されているはずなので、ある段階で、応神天皇のたましいが、八幡神としてあらわれたような、ストーリーが開示されることになるのかも知れませんが、いまのところ、そのたましいの行方はわからないままです。歴史上、いたかいないかという歴史学者の立場ではなく、精神界が提示している日本が大陸と別の天子を戴く国家であることをこの世に示した歴史上の記録の主人公の名なので、その役割は重要なのです。なぜ、いまこんなことを人の世に伝えているかというと、これからの日本は、改めて、大陸の天帝思想と対峙しなければならなくなるからです。
先の光文書に記した通り、私はこの四月十五日に九段の靖國神社に呼ばれ、その日が、西南戦争における官軍の熊本城入城の日であったこととの関連で、ほぼ一年間中断していたシンロジーマガジンの神知と人知の記事も更新されました。そこに、私の知っていることをつけ加えると、復活した薩軍の部隊は、小倉から、大阪、東京へと向かいましたが、東京での目的地は、実は靖國神社だったのです。その後、北米大陸へ向かった一群が、ワシントンのアーリントン墓地に行ったことは、すでにお伝えしたところですが、もともと靖國神社に祀られていないはずの薩軍のものたちの霊的な座を、何者かが用意していたことになります。
人間世界の話で、西南戦争だけではなく、戊辰戦争の敗者の側も靖國に祀るべしという意見もあるようですが、人知でそれらのことを希望することは、無意味です。A級戦犯の合祀とかの問題もそうですが、精神界は、人間界のルールとはまったく別なところで日本列島の神社結界をつくり直しており、それが完成したら、日本人全体の意識も変わるはずです。
そうした、いま精神界で進行中のことに、いまの日本で進行中の現状を重ねてみてください。敗戦後の日本人の意識をコントロールしたGHQの戦略の代行者になった大手のマスメディアが、ほぼ、倒閣運動に参加している現状は、私がいっている平和な内戦そのものなのです。
ここから先にくるのは、政治の時代であり、それが済まない限り、経済の時代がくることはありません。その視点でよく、この世情を見てください。日本は、なぜデフレなのかというと、一般の日本人がマネーに興味を失いつつあるからです。もっというなら、いまの日本に尊敬できる金持ちがいますか、ということになります。
アメリカや中国では、金を持っているだけで尊敬されますが、残念ながら、この日本では、金持ちがその持っているお金を使って何をしたかが問われるという伝統が死んでいるわけではありません。
一般の日本人全体を貧しくしてきたのは、戦後のGHQの戦略であり、パチンコ業に代表される、非日本人のための産業は、長い期間この国の税収には寄与してきませんでした。それを現実化したのは、旧社会党に代表される勢力と旧大蔵省の超法規的な対応にほかなりません。
靖國の英霊たちは、それらの戦後史を知り、村田新八に代表される薩軍の光を宿したものたちに、呼応したともいえるのです。
たましいに光があるということは、意識があり、現実も認識できるということです。
英霊が英霊として、この世にはたらきかけることを、これから、多くの日本人が、感じる時がきます。生きている間に自分のたましいの行方を考えられる人間は幸せなのです。

二千十八年四月二十六日 積哲夫 記

今回の光文書に合わせて通信が届いていますので、掲出しておきます。

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2018.4.18(水)17:54~

たましいは 不滅なのではなく
その目的を 遂げるまで
あるいは 学びを終えるまで
存続しつづける あるコードの
プログラム

その両方を放棄した たましいは
永遠の闇の中に
閉ざされていく
人間は そのことを理解して
いなかったので
祀り 祟りを鎮めようと
してきたにすぎない

意志あるものは やがて
正しい道へと みちびかれる
どれだけ人為によって
歴史が変えられたとしても
智慧のあるものによって
やがて読み解かれる日が
くる
それは 最後の審判 と
いうものの プログラムに
似ているが 同じものでは
ない

伝えられるものが現れるまでは
とどめておかれる
ちょうど 読み手の到来を待つ
物語に似ているかも知れない
ひとのたましいの物語は
届くべきものの元へ届けられて
引き継がれてゆくのだから

物語の扉は いくつも開かれて
いるけれど
開けることができるものは
少ない
すべてが ただひとつの物語で
説明できるのだとしたら
この世界は 必要ないのだから

人類が“叡知”と読んだものは
とおくとおいところにおかれていて
その時を ほほえみながら
待っていたように
神のようでありながら
それは神とはちがうもの
ある種の意識
あるいは知識 知恵
真実の宇宙は 智慧にあふれている