Vol.800+30+15

ベネティクト十六世とファティマの預言

二千二十二年の大晦日に、前ローマ法皇だったベネティクト十六世が、この世を去りました。このことと、日本の秋田の修道女のところに、千九百十七年にポルトガルのファティマでなされた聖母マリアのメッセージと同じものが降ろされていたということが、リンクしているらしいので、今回はその報告です。
なぜ、日本にもファティマの聖母と同じメッセージが届けられたのか。それは、ポルトガルでの預言は、第一次世界大戦から第二次世界大戦を前にして、ヨーロッパを中心とするこの世に下されたもので、日本の秋田での奇跡の出現は、千九百七十三年から千九百八十一年に及ぶもので、第二次世界大戦後の世、とくに日本地域から世界に波及するムーブメントの予告だったということです。そして、この日本の秋田における奇跡をローマ教皇庁が正式に認めた千九百八十八年の担当者が、その当時、教理聖省長官をしていた、ライツィンガー枢機卿、つまり、後のベネティクト十六世なのです。
この秋田の修道女のもとに、二千十九年に三十数年ぶりに、天使が訪れ、その修道女は、その時は近い、と感じたということがあり、今回の前法皇の死があったというのが私の理解するところです。
ポルトガルのファティマの預言は、第一次世界大戦の終わりと第二次世界大戦の予告、および、ローマ教皇庁の危機を伝えたとされています。それと同じ内容が、日本の秋田に千九百七十三年から千九百八十一年にかけて伝えられたのです。
そして、今年は二千二十三年です。
千九百七十三年から、五十年後です。もしかすると、二千二十三年は、ファティマの預言の最終章の起点で、そのはじまりの前に、前ローマ法皇が死んだということは、それを知らせるためともいえるのです。
これらの理解は、ここに到って、予言や預言の時代は終わったという精神学協会の立場とは矛盾するように見えますが、正しい神格の予告、つまり、契約に基づくものは、すべて果たされるという大きな前提があります。ファティマの聖母マリアの預言は、これから、現実化するということになります。それは、最後の審判が、現実化するということでもあるのです。
さまざまな予言の通り、いまの世界は、人間の欲望によって、いままで機能してきた社会のシステムが、崩壊する方向に進んでいます。その危機感を逆手にとって、いまの支配の方法をさらに強化しようとする勢力と、それに反対する勢力とに先進国の国民も分かれつつありますが、日本は、そうした動きからさえ取り残されつつあります。日本から最後の審判のムーブメントが発生するとすると、いま、快適に生きている多くの日本人のこれからは、すでに予告されたものになるのでしょう。それは、死後はじまるのではなく、生きている間に体験しつつ、死に到るという道になるはずです。なぜなら、それが約束されたことだからです。
精神学は、聖書があって、日本の記紀があって、最終知識が出たという神知の領域の学として、地上の人間界に降ろされました。その意味では、精神学は、人間の精神の学ではなく、この宇宙の精神的存在すべての学なのです。
最後の審判の時代がはじまることで、いままで、宗教の時代には沈黙を守ってきた神や神々や悪魔や悪霊などといった、人間の意識活動の中心にあった意識体の情報だけでなく、それこそ、石や木々、河川や山々などの意識も長い眠りから覚めて、活性化し、人間の行ないを告発することになります。
これらの知識は、一神教の世界にはなく、体系的にそれらの情報を保存しているのは、唯一、日本だけだということに、日本人が気付くことで、次の世界のシナリオが置かれているのは、日本列島だと、世界の人間が気付くことになるのです。
いまの日本を支配している人間グループは、こうした日本列島の精神文化の継承者ではありません。つまり、いまの日本の主人公である、そうした人間グループは世界と共に滅びの道へ進むのです。それらのことを加速するために、いま、天と地が動きはじめています。その先には、いまの科学が、神理なるものを発見して、無神論の時代を終らせるプログラムがあるのですが、その知の領域に進めるものは、僅かでしょう。
この二千二十三年は、その先が見えるものには見える、はじまりの年となるようです。

神紀三年(二千二十三年)一月十九日 積哲夫 記