死の決定は誰にあるのでしょうか

例えば医療の最先端技術として臓器移植がクローズアップされ賛否両論の意見の中、成功例や成功しなかった例が報告されている昨今です。もし今後、臓器移植が盛んになり医師が死を宣告するとき、脳波が止まって脳死状態で移植するとか、いや心臓が完全に止まってからだとか論議されていることがニュースで知りました。臓器移植そのものが勧められるべきものなのか?尊厳死とは?臓器を提供する人とされる人。また双方の遺族の方々。医師が死を宣告するタイミング等々、大変難しい問題だと思います。特に遺族の方々の気持ちは複雑でしょう。逆に臓器移植を待ち望んでいる家族は、命を頂けるのだから期待も大変大きなものでしょう。そして治療を行う立場の人たち、人の命を救うために身を削る思いで、医学進歩のために研鑽を重ね計り知れない研究や実験を繰り返されていることでしょう。しかし本来肉体というものは、私たちが魂の学びのためにこの地球に生まれ、一人一人に与えられた身体と命だとすれば・・・。私の考えは偏った考えかも知れませんが、心も身体も天から許されたその人だけのものであり、臓器も勿論その人の身体に備わった命です。他人の物を頂いてもあくまでも他人の物でしかないはずです。本来心の病気も身体の病気もその人のマイナス因子が原因であるとすれば、当然その原因を探らなければ、その人の学びに近づく事ができません。病気や怪我等によって感謝の心や、自分の我が儘な気持ちや行動を思い知ることも必要だとするのが私の考えです。このように臓器移植に関することやほかの病気全般にかかわる受け止め方は、私自身の考え方の基本です。そしてもう一つ、私の体験から知った生死の分かれ道に立った時の状態の中で、生か死かの決定についてです。世間の人は高齢者が亡くなったときは、寿命だとか大往生だとかよく言われます。高齢者や若者や子供であれ、その人の役割が終われば魂の世界に帰るのが道です。しかし生死をさ迷っている時、生への執着心が強いとか、生きることの意味を知ろうと希望を持ち、生きる力を強く求め生きることを決心すると、生きるための力を動かし始めます。一般に奇跡といわれる状況です。そのとき人によっては、魂の世界を確かなものと信じ、他人のために働こう!他人の役に立とう!自我を捨て大我に生きようと生き方さえ変わってしまう人もいます。異次元にふれると魂の意識まで変わるようです。それと最後の段階でたとえ、意識がなくても死にゆく人の枕もとでは、どんなことがあってもその人が悲しむような言動はしないでください。意識が無くなっていても、そばにいる人たちの言葉も心も全部理解していることを認めて、末期を看取ってあげてほしいと思います。必ず心が通じている!私はそう信じています。

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