幸せの法則と目的地と審判

  やっと、やっと発見したと実感しました。
自分が小さい時よりいろんなめぐりにおいて、他の人より苦労するのはなぜか。
悩み、考えながら幸せになる共通する法則があるのではないか―
楽観的に考える人に事柄がスムーズにいくのはなぜ?
思い立った時に行うと邪魔や苦労するのはなぜ?
プラス思考は全て良くなっていないのはなぜ?
マイナス思考をするからだと非難され、しかし自分にマイナス思考が生まれるのはなぜ?。
そう考えながら宇宙、神仏、ひつき神示、最終知識の順で出会ったのです。
  2008年12月に離婚し、その前後自分の闇の心を制御できなかった、言葉と行いが前奥さんを傷つけた。
何度もなんども後悔と悔恨の中で、小さい頃に掲げていた“誠の想い”がよみがえり、幸せの法則の確信が持てた気がします。

1、感謝する         
  :現在の状況の総てを受入れ、感謝すること
2、笑顔のために 
  :みんなの笑顔にために はたらくこと
3、祈る(みこころのままに)
  :御国と審判のプログラムがスムーズに実現しますように祈ること

  1、感謝と、2、他人の笑顔と、3、祈りを願った時に、現実の運勢が変わり始めた。
忘れないために未来の自分に記しておきます。

  最終知識に心臓のチャクラの小さな自分が上方のチャクラを目指し旅をする。小さな自分はこころを持っている。こころは自分の見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞ける。
  しかし、上昇するには下降の知識が必要である。太陽神経叢、性器、仙骨のチャクラの知識を持って上昇し、咽喉、額、頭頂のチャクラに旅をする。まるで自分の闇の部分を解析し受入れ、それを十字架に背負い、その分上昇できて、光にあげるという感じでしょうか。
  最終的に心臓の小さな自分は、自分の闇を認識し背負って、人生の経験データと、神界・魔界・霊界・精神界の知識を光のデータとして、自分の小宇宙に書き込むことが、人間にセットされた目的なのか、と考えています。その過程で闇は光のデータとして浄化される。
  審判とは許しや消えることでなく、喜びも悲しみも楽しさも寂しさも幸せも後悔も罪も、行いも言葉も自分から出たものすべてに、向き合わされ、その影響がどのように波紋を招いたかを認識させられ、自分が心より認めるようにならなければ、光のデータとして浄化できないのではないかと思います。
この審判を越えて初めて、自分に御国の(みろくの)扉が開くのではないかと思います。
  最終知識には神界・魔界・霊界(精神世界・こころ)はすでに審判されました。次は現実界に審判が実施される。審判では闇がアクの如く浮き出てくる。制御できるのは目覚めた自意識しかない。苦しくて、つらくて、罪をいくら許しを乞うても、許す神はいない。すべてを見つめて認めるしかない。
  「光側の愛と勇気と正義」の実行は、アンチテーゼとして闇側が主張する、「間違った愛と勇気と正義」に惑わされず、抵抗を乗り越え、審判を受け入れることだと考えています。つらさは予想以上につらいでしょうね。
  どうか、どうか、みんなの笑顔の世界が一刻も早く訪れます様に切に祈ります。
ミエル

コメントを残す