龍の理

名前のオトダマからのイメージ、ブログタイトルの三度の変更

・3変える→ミカエル
・三度→みつるぎ、みひかり、みたま
・3→愛、勇気、正義

小宇宙の新しいちへい へと

レンタルで借りてみた

前回のブログ投稿から数日たちましたが

ブログ投稿の翌日にふと実際の作品を見て

何かを知覚して処理したほうがいいように考え

ご近所のレンタルDVD屋さんでいくつかのタイトルを借りて

見てみた記録になります。

 

借りてきたのは

TVアニメ版 21話「ネルフ、誕生」22話「せめて人間らしく」

25話「終わる世界」26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」

旧劇場版「Air/まごころをきみに」(アニメ版25,26話の消化不良の部分を映画化したもの)

新劇場版「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」

(旧劇場版が納得いかないものだたので再度映画化したもの)

でした。

 

色々と考察はあるのですが

21話については、本ブログの初投稿で書いた

マギシステムの開発時の回想が

システム開発者と運用担当者の親子目線でより深く描かれていて

ある意味で個々に差はあれど

IT技術者(SE)が壊れていく過程が描かれていた印象です

※作中でシステム開発者の女性が、システム稼働を目前にして自死しています。

これは3つの人格がせめぎ合い(戦って)

人格の乖離を経て壊れてったのだと推測しますし

頭(脳)の回路だけで生きていた結果の崩壊とも捉えられます。

21話は赤い機体に搭乗するパイロットが使徒からの精神攻撃を受け

精神が崩壊していく物語だったのですが

ある意味で、欧米由来スピリチュアルのなにがしかを何となく感じたように思います。

25、26については

作中のキャラクターの「内なる破滅願望」をテーマとして

それとの向き合い、内観、清算などを含めて

本来の自分というものと向き合うスタートラインに立つような

そんなイメージだったと思います。

別の例え方をするならば

内なる神と内なる悪魔と向き合って

悪魔を改心させていくというか

別のアニメで言うのなら

ドラゴンボールの地球の神はもともと一人の人間だったが

神になるために悪の心を分離させる必要があったため分離させた

そのもう一人の存在がピッコロ大魔王で

ビッコロは物語が進む中、改心というか悔い改め言うか、悪の心がなくなり

再び神と一つの身体に同化する(再統合する)

そんなイメージもあったかもしれません

もちろん、精神学的にも人格の再統合というのは重要なテーマのひとつであると考えます。

 

 

そして、旧劇場版ですが

アニメ版25,26話をストーリー的に広く深く描かれているのですが

(リアルタイムで見たときには感じなかったのですが)

その中でも、一神教の闇、マネーの闇、科学の闇などのエネルギーなども

感じ取れた感じがしています

・感じ取れたのは、それらの領域の波動シールを以前に何度も使用していたこと

・正会員のプログラムなどを取り組んでいたおかげもあったんだと思います。

 

 

新劇場版では

光、光のごとき闇、闇の戦い

闇は具体的な描写はなかったけど、光のごとき闇に内包されたような

描写にも見えました

また、人間通しの相互作用の描写であったり

旧劇場版のそれとは違う描写があったり

最後には主人公たちが光にベクトルが向いて

あたらしい生活を始めるような、そんなざっくりとした感じでした

 

そのうえでの考察などもつれづれに

旧劇場版は宗教の時代のエネルギーが色濃い内容であること

実際にアニメ版のオープニングや旧劇場版の作中では

生命の樹が出てきますし

アニメ版でのゼーレのマークは

七つの目をモチーフにデザインされたものだったりもします。

また、作中では

心理学等の用語の、ヤマアラシのジレンマ、ホメオシタシス、トランジスタシスなどや

遺伝子工学の用語の、ヘイフリック限界、アポトーシスなど

旧約、新約に由来する単語、ロンギヌスの槍、死海文書、マギ、ガフの扉(ガフの部屋)など

がセリフとして出て来たり

主要登場人物のほとんどの名前が、旧日本海軍の軍艦の名前

(葛城・赤城・日向・伊吹・摩耶・蒼龍・綾波・冬月)やアメリカの空母の名前(ラングレイ)であり

さらに、登場する使徒の名前はすべて何かを司る天使の名前に由来する

こともその証であるように感じます。

 

新劇場版は

旧劇場版から聖書の役割が終わった、または、終わりゆく過程を描いているように思えます。

また、伏線をして

①現世界の人間支配のグループと

②福音側のグループ(こっちは無神論や欧米由来スピリチュアルのエネルギーも

持っているし新劇場版3作目の副題でもアナグラム的にも表現されている)と

③光へのベクトルや意志を持つグループ

の描写も描かれているのが特徴ではあると思いますが

描くために作者(総監督)は

①②に関する波動に無意識のうちにコンタクトし続ける

そんな事も度々あったのではないかと推測し

これらの波動の行きつく深部の先というかは

波動シールで言ったら

「霊界・幽界・電磁界」

中でも幽界と電磁界(映画というメディアの関係上)

になるのではと推測します。

 

今回もだらだらと長い文章になりました

新劇場版は正直、原作と大きくかけ離れている描写が多かったので

私自身見ることを拒否してきたのですが

 

今というときになって

二つを見比べて考察する

そのうえで小宇宙内のなにがしかを清算する必要があったんだと思います。

まさにある意味

「その日その時」「必要にして充分なだけ」

であり、流れというものだと考えます。

無駄がないなぁとも

 

色々と出てくるままに書いたのですが

お読みいただきありがとうございました。