「神を超えて、仏を超えて・前編」
いつだったか、冬の帰り道、突然、頭の中で不思議なヴィジョンが再生されたことがある。
ぼーっと流していたけれど、後から、あああれはそういう意味だったのか、と分かった体験だ。
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明るく抜けるように晴れ晴れとした、光溢れる空の下。
視界を奪う勢いで、白い花が咲き乱れていた。
足元を埋め尽くす花の名前はわからない。薄い桃を帯びた、美しい花びらだ。それがおびただしい数、見渡す限りを占拠し、さらに風に乗ってひらひらと重力に逆らって舞い上がっている。桜ではないことは分かっている。芳しい香りがしているのだと思う。その場にいないのだから香りなんて分かるはずもないのに、ただ、その香りにその場にある自分の『全身』が満たされていることは分かるのだ。
臨死体験で脳内に再生される花畑があるとしたら、きっとそこはこのように、この世のものでないとすぐさま分かるほど、美しいのだろう。
言葉を絶する。凄絶な、という形容が似合う光景だ。
そんなイメージが、突如、頭の中で弾けていた。
鮮烈で明るいエネルギーの奔流。想と呼ばれる意識の層のものだろう。混じりけのない純粋な、爽快の光だ。
現実にいる自分は凍えるほどの寒さの中、身を縮めて帰路を急いでいるというのに。
世界中の春の概念を一番綺麗な形にしたようなヴィジョンの中で、私はひとつの人影に出会っていた。
宗教画に繰り返し描かれた、彼の人。いったい絵筆をどれほどすり減らしてきただろう。
どれだけの人が会いたいと願い祈りを捧げてきただろう。
白いトガに似た簡素な衣装を纏い、くしゃくしゃとした黒髪と、少しの顎髭を生やしている、その男性の名は、ヨシュアというはずだ。
あるいはジーザス。あるいはイエス。キリストの名で呼ばれる人。
彼はただ静かに微笑んで、その頭に頂いている緑も鮮やかな蔓の冠を外し、音もなく私の頭に置いたのだ。
言葉はなかった。いらなかったのだろう。
言葉にせずとも、私は識ることができたのだから。
彼の眼差しはこう言っていた。
あなたは私の座を継ぐものだ。お行きなさい。
自分よりも、はるか遠くへ。私を超えて、その果てまで。
――その翌日のことだった。光文書に、「茨の冠」と題された、奇跡の話が出されたのは。
やがて世界中で、正しい信仰を持って天に祈り、神を求める人々は、イエスに出会い、茨の冠を授けられるようになる。
その証として、予め、私もまた茨の冠を賜ったということだったのだと、知った。
*
イエスに限らず、いろいろな神が、私に何かを渡してきたことがある。それは時に剣の形をしていたり、玉の形をしていたりと様々だった。
しばらくそれが何なのか、10年近くもの間、私には分からなかったけれど、今思えば、それはある種の継承の儀式だったんじゃないか、と、ひとつの答えを出すまでに至っている。
最終知識では、筆者に次々と神々が光を譲っては退場していく様子が記されている。
それと同じように、誰もがたどり着いた地点に応じて、君は私と同じ地点に到達して、その先に行かねばならないのだよ、と、その証として贈られる、象徴のようなものなんじゃないかと思ったのだ。
イエスもブッダも人間だった。人間だったのならば、可能性として、人はすべて、その先に至る資格を持っている。
茨の冠を譲られたならば、キリストのくびきは、すでに超えてしまった。
寂しさと怖さがあった。ほとんどの人類が到達していない地点に、一人ぼっちで足を踏み入れてしまったかのような孤独感があった。
イエスに会った人々は多いはずなのに。
最初から最後まで、精神の探求の旅は孤独なものだ。一人ひとりが全く別個に、それぞれのたましいの進化の軌跡をたどる。
一人で祈れ、とは、そういうことだと知っているけれど。
たましいは、生きている間、一人ぼっちで生まれてきて、一人ぼっちで死んでいく。
その間、ひたすらに、自らの神性を研ぎ澄ます作業を続ける。
たった一人の世界。浄化と上昇を繰り返し、繰り返し。
審判の層を目指して、幾度となく闇の中を光の筋と化して駆け上がる。不要な自分の感情も、誰かからかけられていた呪いも、魔境の汚れも、過去も、削り落として、その瞬間だけは、全て燃やし尽くして無垢になろうとする。
いつも、不思議なことに、光の層を突き抜けて審判の層に至っても、ずっと上昇を続けていると、見えてくるのは、宇宙の満天の星空の景色なのだ。
闇の層を脱していくと、そこには宇宙がある、ということなのか。
審判を超えた先には、宇宙の命題が横たわっている、という暗示だったのか。
考えても分からないけれど、意識の世界なら、行こうと思えば、どこにでも行けた。
闇の底でも、霊界の只中でも、神の世界でも、どこでも。
上昇することも下降することも、浄化と上昇を繰り返せば繰り返すほど、容易になっていった。何があったとしても、自分で何とかする。無理だと思ったならばすぐに退くか、とことんまで戦う、と覚悟を決めていれば、行けない場所はなかった。
神を超え、仏を超えよと、繰り返し語られる言葉に、ブッダに会ってみようか、と考えた。
会えるだろうか。どこにいるのか。
アクセスしてみた。すぐに通じた。
茫漠とした虚無があった。誰も、どこにもいなかった。
白い虚無の海――乳海、というものかもしれない。
気がつくと、少し斜め前方に、誰かがこちらに背を向けて座っていた。
ほぼ裸の体に、簡単な布の衣だけを纏っている。姿はぼんやりとしか分からないけれど、縮れ毛の黒髪で、おそらくかなり顔立ちは若々しい。柔和な表情をしているように見えるのは、悟りを得て泰然自若としているからか。
この人が。そう思いつつ、なぜこんなところにいるのだろう、と首を傾げる。
ひょっとして私にそう見えているだけで、この虚無には何かがあるのだろうか。
おずおずと、「何が見えていますか?」と声をかける。
彼は振り向くことなく、淡々と答えた。
「君と同じものが」
そっかぁ、と思った。
彼はその一言ですべてを伝えた。
私もその一言ですべてを悟った。
どうやら、私もここで彼と肩を並べて、しばらく宇宙のことを考えなければならないようだ。おまえも私も一緒だよ、とブッダは言外に語ったのだから。
つづく。