遡ること、2008年11月23日、東京での光の経済勉強会で、初めて積さんにお会いしました。「三回目に、やっとお会いできました。」と挨拶をすると、開口一番、「時期が来ないと、会えないんだよね。」ということでした。私は、すでにそれまでに二回、セキ・ギャラリーを訪ねていました。それは、自分の誕生月の三月と、人生の中でいつも大きな転換月である八月の、二回でした。どうしても、上昇が確実にできているのかという不安を解決するためと、光の経済を知りたく、意を決して家族の協力を得て、勉強会に参加をしたのでした。そして、この23日という日が、のちに意味のある日となりました。
東京から戻り新年を迎え、しばらくは一人模索する時間が流れていました。しかし時間がたつに連れ、やはり「最終知識」の本だけでなく、勉強会へ行きたい、もっと知りたいとの気持ちが溢れていました。そして、春の雪解けとともに気持ちの芽吹きは抑えきれないところへ、高松での勉強会の告知が出ていました。これなら近いので、家族の抵抗勢力も少なく出席しやすいので、すぐに申し込みをしました。そして、不安というよりも、何故か不思議と、さあ出発という気分で高松へ向かいました。フェリーを降りるなり、初めてお会いする高松支部長さんより、勉強会の内容変更を聞きました。出発とはこの事なのかと、違和感もなくすんなり受け入れることができました。
徳島で和歌山支部長さんたちと合流をしてから善通寺へ向かう車中、今回の行程やテーマの話が、支部長さんよりありました。四国へ来られた意味や、屋島は最後に周るということで、今日は「和合」ということがテーマですという話がありました。その時記憶が蘇ったのが、子供のころ聞かされていた親の口論の中で、よく出てきていた言葉でした。いつも父は「わしは源氏の家で、おまえは(母方)平家やからこうなるんや。」と、言い訳めいたちょっと変わった会話でした。私の父方の家系には伊勢神宮の宮司がおり、母方の家系には金毘羅宮の宮司という、この存在がのちの気づきにつながるキーワードの一つでした。夜、屋島の場所において、源平合戦の止まるエネルギーに触れ、この四国の旅が、私の中の「和合」というテーマの、旅の始まりでもあったことを知りました。
(高松での詳細は、ブログ“うしろのしょうめんだぁれ”の「四国への道 Ⅰ~Ⅶ」に掲載されているとおりです。)
今思えば、私の精神学への門にたどり着くための出発点は、両親の離婚だったと思っています。当時、学校の中にある、礼拝堂で祈りました。「何故こんなことが、起こるのか。」「どうぞ、両親を引き離さないでください。・・・」「イエス様は、願いを聞き入れてくださらなかった。・・・」「この世に、神様はいないのか。・・・」の毎日が続き、やがて気付かないまま自問自答のエネルギーを怒りに変化させ、四十年以上の時を過ごしてしまいました。そして、何かがおかしいと気付いた時には、身体に変調が現れていました。その後、西洋医学・東洋医学・予防医学・民間療法と渡り歩くうちに、心と体の関係をキーワードに、2002か03年の秋に、何故かゴッド・ブレインのHPにたどり着きました。しかし、その頃はまだ恐る恐る、疑念を持ちながら、時々覗いていた状態でした。そして、この恐る恐るの好奇心が、「この両親のもとに生まれた理由と家族とは」を解き明かす物語として、始まったのでした。
続く