新幹線は「新しい幹線」という意味である。
つまり、線路や設備などの総称だが
線路を通行している乗り物
(のぞみとかはぶさとかさくらとかががやきなどと呼称されているものは
「新幹線を通行している専用の列車」である)
基本的に新幹線は国が建設し
その後、鉄道運輸機構が所有をし
JR各社は機構にサブスク料を支払い営業運転がされている
(多分、線路や設備の保守点検や列車自体の保守点検はJR負担である)
この3月に北陸新幹線が敦賀延伸となり
北陸から大阪へのアクセスが不便となったとの声を多く聞く
延伸以前は、金沢まで北陸新幹線、金沢からはサンダーバードに乗り換える
(もしくは、金沢からしらさぎに乗り換えて米原から東海道新幹線に乗り換える)
というルートであったが
延伸以降、金沢-敦賀間のサンダーバードとしらさぎは敦賀からとなり
その区間は並行在来線のIRいしかわ鉄道とはぴラインふくいに移管され
廃止となり
北陸から大阪方面に行く際には
敦賀まで直通するかがやきとはくたか以外については
富山もしくは金沢でつるぎに乗り換えて敦賀まで行き
そこからサンダーバードかしらさぎに乗り換えて大阪まで行くことなったし
福井などでは並行在来線または車で新幹線最寄り駅まで行って
敦賀まで行って、そこから特急に乗り換えるという
従来より時間も交通費もかかるという話も聞いたことがある
北陸新幹線の敦賀大阪間のルート選定の問題(費用対効果や地下水なのでの環境汚染)
があるという事もある
そもそも新幹線(日本の高速鉄道)の構想は
戦前からあったようである
物資調達などの関係で着工には至らなかったようである
それが戦後に東京オリンピック開催に間に合わせる形で東海道新幹線が開業している
(間に合わせて建設した部分もあり、線形が悪かったり、高架ではないため、風雪や雨に弱く
輸送密度過密であるため現在はJR東海がリニア新幹線を建設し、北陸新幹線は災害時等のバイパスとしての意味も持っている)
その後山陽新幹線が開業
田中角栄などにより整備新幹線の計画がなされるが
オイルショックやロッキードなどにより計画は中断をされる
計画は再開され次々と建設と開業がなされている
(その間に国鉄の分割民営化もなされている)
何となく現状や歴史などをざっくりと記載してきたけれど
新幹線はどうも
昔の街道というものをベースとして建設されているらしい
(九州・北海道新幹線は調べていないので不明)
東北新幹線:日光街道から奥州街道
上越新幹線:中山道から三国街道
東海道新幹線:東海道
山陽新幹線:旧山陽道
がベース
そして
北陸新幹線は
中山道から北国街道を通り北陸街道
のようであるが
北陸街道は一部(敦賀まで)となっていて
そこから先は未定となっている
北陸街道をそのままベースとするならば
敦賀から米原あたりに抜けて
中山道或いは東海道と合流して大阪へになるのだろうが
今現在は政府案では米原ルートは議論されておらず
(政府以外ではこの案を再度推す意見が一部再燃している)
小浜京都ルートが議論されているが
京都の地下水の問題やトンネル工事のダンプや廃土の問題などもあり
先に進んでいないのが現状である。
ここで内容は新幹線から離れる
一部例外はあるが
現在の北陸四県がかつては
新潟:越後
富山:越中
(石川:加賀・能登)
福井:越前(・若狭)
と呼ばれていた
上方(京都や大阪)に近い順に「前・中・後」が「越」がついていてる
(「高志(こし)の国」が「越」に変化したという説がある)
また、新潟県に見られる「上越」「中越」「下越」も同様で
上方から近い順にかつては「上越後」「中越後」「下越後」とやばれていた名残である。
(ちなみに鉄道の上越線は「上州と越後を結ぶ線」の略称であり、由来が違うし
関東圏の人が魚沼や湯沢方面を「上越」と呼ぶのは厳密に言ったら正しい表現ではない)
内容は度々変わり
室町(戦国)時代には新潟から石川県までは
上杉謙信が治めていた土地である
越後に拠点をもち越中の一向一揆を沈め
加賀や能登も治めていた
(その間に川中島などにも行っている)
上杉家の領地が最も大きかった時期は
新潟から石川までの領地を収まていたという事だが
その直後、謙信は急病によりこの世を去る
謙信には実子がおあらず二人の養子を迎えているが
後継者をどちらにするかを養子には伝えていなかった
謙信の死後、二人の養子は跡目争い
(「御館の乱」とよばれるもの)を繰り広げる)
最終的には景勝が跡目を継ぐこととなるのだが
その隙に乗じて、織田信長は加賀と能登を手中に収める
謙信が最後に領地拡大をしたのが現在の石川県七尾市の七尾城
信長が加賀と能登を手中にするために宰至に攻めたのも七尾城
今年の能登の地震で被害が大きかったのも七尾市以北の能登半島
(先日の豪雨もともすれば)
若狭や越前は信長の領土であった
信長はその後本能寺に変で倒れる
景勝は大阪に上洛し、越後から会津への異動を余儀なくされたのち
豊臣の五大老となり
江戸初期には「直江状」などもきっかけとなり更に米沢へ異封される
なにか
このあたりも
現状の「敦賀から先」
に関係があるのかないのか
その検証というのは
(考察が正しい正しくないも含めて)
これから色々なところから
なされていくのではないかと考えられるのだが
小宇宙で展開されたものの記録として
この場に置いておこうと考える。