投稿者「hikarinooto」のアーカイブ

記録として

先月はとある用事があり
長野県の善光寺周辺まで行きました
(今月も用事がありいくよていではある)

善光寺と言えば
「撫で仏」とされている「びんずるさん」が鎮座しているいる場所でもあります。

私は、撫でるという事はもちろんすることはなかったのですが

私は遠巻きに「びんずるさん」の像と、像を撫でている方々のことを
見ていました。

びんずるは
「そんなにみんなに撫でられても・・・
あなたの中の答えはあなたの中にあるのだから・・・
困ったものじゃ・・・」
というような波動を私に送っていたような気がします。

「中空にあると言われる精神学というものを学んでみたい」
ようなことも言われていたような気もします。

びんずるは
ブッダ(お釈迦様)の弟子のひとりとされ
撫でて人を治す神通力のようなものがあったとの記録があり。

その力によって欲深くなり一度は破門のような形となり
その後、悔い改めて弟子として復帰したともされています。

SBMというものも
撫でる、触れるという事をする機会があるものではあるけれど
それは、メディアとしての契約においてなされるもの

(神通力でどうのこうのというメソッドで無いことは
いうまでもない事)

私も自身の中に欲深き自分がいたと考えさせられ
気づかされ、反省などもさせられる

善光寺に初めて行ったのは
小学校の修学旅行だったという事を思い出し
その時は自分も頭のあたりを撫でていたような記憶がある

その時からテーマのようなものもあったのかもしれない。

その後何度か訪れたことはあったけれど

数年前は知り合いと行って(その時は撫でなかった)
知り合いが後日「達観」と言っていたことを思い出す。

小学生の頃から40年ほど経過しているけれど

背景など色々のものが情報化
(物語として読んでいる)されてきているようにも
考えたりもしています。

精神学は実学

記録として