これは、あるひとつの果物物語からの罪の申告、小宇宙のできごと
(果物物語についてはここでは触れません)
私は普段から
「神を超えよ 仏を超えよ」
「日本人は救世主」
「最終知識」という書を
何かの折に再読したり
正会員プログラムを再施行したり
SBMやマツリヌシの講習会でのテキストを再読したりという事をしていますが
(もちろん、浄化上昇や審判の希求、秘蹟オイルの塗布なども日常的にしています)
投稿の最初書いている果物物語を耳にした時
ふと「神を超えよ仏を超えよ」と最終知識の「魔の遺産」からを再読したくなったのです
(前者読み終わり、後者は結局、「終わりのはじまり」から再読をはじめて再読中です)
読み進めているとあるふたつの事に気が付いた自分がいました
一つ目は私がSBMの講習を受けていた当時の講師さんに
私に与えられている楽器で、果物物語と同じことをしてしまったいたという事
そしてもう一つは
約三年前(精神学を学び始める半年くらい前です)にある方に
「弱虫、頑固、意気地なし」みたいなことを伝えたことがあって…
その言葉自体もよくない言葉であるし、
その言葉には愛がなかったと
今現在猛反省と悔い改めが進行しているのですが
そのある方以外の他の人何人かにも言葉は違えど
それに似たことを言っていたを言う事にも気が付いた
つまり、3年前の出来事の意味が理解できていない
故に、周囲にも迷惑をかけていたかもしれないし
似て非なる事象が自分を起点とした周囲のこととして
あらわれているのだという事に気が付いたのです
自分の小宇宙の状態というものをスクリーンとして投影するのが
自分が生きている現実世界(外側の物語宇宙)でもあるから
つまり、私は私につまづき
自分自身が弱虫、頑固、意気地なし
そして、自分は罪深い、いと小さき存在である
という事に気づいていなかった(気づけていなかった)
そして、「自分は悪くない」という部分に固執していた
節があるという事です。
(そのある人に投影されていた自分自身のそういう部分に
気づけなかったという事でもある)
例えば、家の建て方の知識がなければ建てれないように
料理のレシピが頭になければ作れないように
洋服などのリフォームをする際にそのデザインが頭になければ
リフォームできないように
詐欺がどういったものか知らなければ、その詐欺に騙されて
しまいかねないように。
情報や知識というものが頭になければ
創ることも、創りかえることも
(創造することも、再創造することも)
危険を察知して回避などの対処をすることも
できない
つまり、そういった部分の自分が存在すると認識がなければ
その自分を癒すことも、手放すことも、再構築(再創造)する
こともできないという事にも改めて気づかされました
(気づいたつもりで今までいい気になっていた。ともいえるかもしれないですが)
もちろん、そんな自分の一部とひとつひとつ向き合って
悔い改めながら、愛というものも見つめつつ
正しい光のベクトルに戻しつつ進んでいくわけですが
私がそんな影響を与えてしまった皆様方には申し訳なかったと思いますし
気づきをいただいたこと学ばせていただいたことにも感謝いたします。
約3年前のある方には
どこかで何かのタイミングがあり
それが許されることなのであれば
直接お詫びができたらとも考えますし
学ばせてくれたことへの感謝も伝えたい
とも考えたりもします。
とは言え、これは私の人間ごころなので
そう考えたからと言え、人間ごころではどうこうなる話でもない
「願わくは、みこころのままに」
とならざるを祈らざるるを得ない部分でもあるのですが
神を悪魔を自分を考え学び
愛というものを考え学び
本来あるべき
人の子として生き
はたらいていく
自分を生かし周囲も生かす
そこには愛という架け橋がまず必要
こうやって文章化するのも
審判の(申告の)一つのかたちなのかもしれない
そんな風にも考察しながら
こんな私ではありますが
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。