光のオトダマ

楽器というものをを奏でること、演奏することに
肩書や学歴って必ずしも必要なのかなという事を考えたりすることがある
そんな意識をもって活動することを想定して
そういった音を聞く人は
まずその肩書などで
「この人は肩書(経歴)などがあるからうまいはず」
から入ってしまう事はないだろうか。
そのことを知らなくても
あとでそれ(肩書など)を聞いて
「だからうまいんだ」と安易に理由付けを
してしまう事はないだろうか
言い換えたら
そこにヒエラルキーというものを
生み出してしまう
という事はないのだろうか
奏者にとっては
「この肩書に恥じないようにやらなくては」
と意識して練習をし、本番を迎えるのだろうけど
する人、される人双方が
肩書に使われている
肩書に振り回されている事はないだろうかと
そんな人たちを否定するものではないし
色々考え方もあるし、その考え方によってそれぞれの
学びやテーマがおかれているのであろうから
もし仮に、非常にレアな楽器を演奏すると仮定して
その楽器のいわれや
どんな特性や特徴があるのかの
簡単な説明をする必要があるとは考えるのだけど
基本的に根本的に
奏者本人の意識の状態が音として表現される(乗る)ものではないかと考える
意識や思い
それ自体が波動であるのだから
それで
楽器が悲しんだりすることはないだろうか
楽器にだってイシはあるのだから
多分、思いよりも純粋な気持ちが大切で
「きれいな音を純粋にたのしんでもらえたらいいな」
くらいでやっている人の方が
純粋できれいな音が出るんじゃないかって考えるし
ある意味ではそれ自体も手放したほうがいい音が出るのかもしれない
いのることと
拝むことは
違うのだから
あれこれ色々と小細工する必要が果たしてあるのだろうかとふと考える
こんな事を書いたけど
こんなことも考えつつ
私も肩書というものについて改めて考えさせられた
SBMインストラクター・マツリヌシ
現実のこの世界で捉えたら
資格であり肩書という事になるのだけれど
それは契約というものに基づいて
与えられたものであり
付与されたものでもある
契約という事は
その契約というものをを正しく履行しているかを
常に問われているという事
ヒエラルキー的になってはいないだろうかという事も
含めて
それらを
改めて
人生の出来事や人間関係などから学ばせていただいたし
それに限らず
自然や物、動植物などからも学べること
考え考察することはたくさんある
という事に視野を広げるならば
「精神」とは
「精製された神性」のこと
(浄化上昇して)理性的に考えることは
光と闇を分離し
神性を高め
精神の免疫を形成していくことにもつながる
愛へと繋がる
そして勇気へと繋がる
さらに正義へと繋がる
学びの一面ではないかとも考える
そして無駄はないなとも