Vol.800+6

赤と黒

この二千二十二年は、現行の地球文明にとって、重大な転換点になる年のようです。
実は、これまで、あえて私が記述してこなかった情報として、いまでも、そのイデオロギーが科学的だと信じる人間が多数存在している、マルクス主義の発案者である、カール・マルクスという人物が、悪魔と契約したものであるというものがあります。そして、このことを、アドルフ・ヒトラーに教えた存在がいて、どうやら、これらの敵対する存在は、地球の神というより、この宇宙的な戦いの背後にあるものの意識エネルギーの領域に、その出自があるようなのです。その視点から、現在、進行中のウクライナとロシアの戦争を見ると、それが、赤と黒の最終戦争の予備戦のようなもののように見えてくるはずです。なぜ、こんなタイミングでこのような情報開示をするかというと、この四月の時点で、千九百四十五年のナチスドイツの敗北を前にして、アドルフ・ヒトラーが魔術的な方法で、二千三十九年のために用意した、ラストバタリオンがこの世で動き出したとの情報が届いたからです。
ラストバタリオンとは、最後の大隊の意味で、この名で多くの人間が思い起こすのは、ネオナチと呼ばれている、アゾフ大隊のことでしょうが、ネオナチはロシア側にもいて、プーチンと親しいとされる傭兵会社ワグネルのオーナーは、企業名に作曲家のワグナーの名を使うほどのナチス信奉者として知られています。そして、この赤と黒の戦いは、ヨーロッパもアメリカも、さらには、チャイナもというように全世界を巻き込んで進行していくというのが、聖書的な未来の姿です。こうした未来は、日本にもあり、その代表がヒツクノカミの文書にありますが、いまの世で、それは現実のものとなりつつあります。何らかの形で、いまある文明は終わりの時を迎えるというのが、それらの予言のテーマであり、この二千二十二年に、それは多くの人間の意識上にのぼることになるということです。その先にあるのは、たぶん、核戦争の危機です。ただそれは、ある領域から見ると、起きても、起きなくても、同じなのです。
聖書の神の最終戦争は、すでに終っているので、その物語が、この物質宇宙に投影するものとなるはずですから、すでに、最悪のストーリーではないはずだからです。
聖書の時代が終わるためには、この赤と黒の対立によって、その両方の意識エネルギーのもとたるものの正体が表に出て、そのどちらもが、最後の審判の業火で焼かれなければならないからです。
人間の歴史を正しく知ることができれば、赤い勢力の共産主義者も、黒い勢力のナチズムの信奉者も、大多数の人間の支持を受けた訳ではないことが理解できます。ところが、その少数者が権力を握るプロセスは、共通で、暴力の行使と恐怖による支配というものがセットになります。
それは、ほとんど、宗教的な狂信者の行動と同一のものです。この狂信者のメカニズムを知るために、この地球上における黒歴史があったといってもいいのです。
それは、神の責任といってもいいものでしょう。この物語宇宙には、学びのテーマがあるのです。そして、少なくとも、聖書の神たる存在は、その学びを終えました。その物語のシンボルが、光の剣といってもいいのです。
聖書の神たる存在と、その反対者であった金利の神たる存在であった古き龍が、消えた後に、その空間に残されたものは、最後の審判の光を宿した剣でした。これが、この物語の終わりを、なぜ、意味するかが、ほとんどの人間には理解不能なのだと思われますので、改めて、私の理解をお伝えしておきます。この物語宇宙が戦いの宇宙であるのは、最後の審判というものが、起きたことがなかったからなのです。正しく裁くものが存在しない世界では、力がすべてを決します。いまの世界の姿です。その不条理に対して、やがて、最後の審判の時、つまり、その日、その時がくるというのが、神を信仰する立場であり、そんな日は永遠に来ないというのが、アンチ・キリストというか神に反するものの立場でした。
その物語が、宇宙規模で続いてきたのが、私たちが存在しているこの時空なのです。それが、最終段階を迎えたというのが、いまの地球の姿で、これから、約束されたことや用意されたことが次々と生じることになります。そのひとつが、ヒトラーが用意したラストバタリオンで、ここから、あの第二次世界大戦の背後にあった精神エネルギー領域のほんとうの姿が出るはずなのです。私たちは、その証言者として、ここに生きているのです。

神紀二年(二千二十二年)四月二十一日 積哲夫 記

この光文書に合わせて通信が届いているようですので、掲出しておきます。


令和四年四月十九日(火)十四時五十四分から

いたずらに神を語るな あるいは 神を妄信するな
真実は 真の信仰のあるものにしか 開かれない
あるいは そのものにしか 耐えることができない
そこにすべてのこたえがある

あなたがたは その信仰に いたることができなかった
あるいは 信仰者たちを あざけり笑ったものたちとして
契約ののちには 火に焼かれるのである

信仰を抱いたものたちにとって
審判の光は 勇気と希望のあかしとなり
その刻印は 契約どおりに ただしくきざまれる
最後のときが きたのである

(聖十字のイコン)