Vol.800+30+34

資本論と明治維新

カール・マルクス著の資本論の第一巻が世に出たのが千八百六十六年、その二年後の千八百六十八年が、日本の明治維新です。
マルクスの資本論は、無神論者が、人間の頭で記述した著作と、多くの人間は考えていますが、精神界の情報では、聖書の神との戦いに、ほとんど勝利して、現実世界のほとんどを手に入れた、西欧のアンチ・キリスト勢力の代表であった、魔界の意識体が、日本列島に残された神と神々を迎撃するために、地上に置いた書物ということになります。
旧約の聖書の神は、自らを「妬むものである」と説明しています。精神学の知識では、神といえど、光と闇の合体物であり、神は自らの闇の部分を告白し、それを処理するために、地上の世界に降りているということなので、この「妬むもの」を卒業するために、金利を認めないという立場があるという理解になります。
西洋文明が、急成長し、世界を植民地化していく動きの背景にあったのが、資本主義で、歴史上、初の株式会社であったオランダの東インド会社は、資本主義が世界を所有するところまで拡大する出発点にありました。
資本主義の本質は、ごく少数の出資者による、事業の所有と利益の独占というものです。この資本主義へのアンチテーゼのように見えるのが、共産主義なのですが、その本質にあるのは、「妬むもの」の行動原理の正当化であり、人間の意識の絶対化にほかなりません。
人間の意識が生み出した、平等な社会への願望を、人間が現実化することが可能か、という哲学的な問いが、そこにはありません。この感情的な人間の欲望達成の手段として、暴力を利用することも可とすることで、その主張の背後には、必然的に社会的な暴力機能を所有し、それを使う人間の立場が見えています。
一般的な共産主義の世界拡大には、レーニンのロシア革命と毛沢東の中国共産党による国民党への勝利の後に、旧ソ連邦の崩壊で止まっているように見えますが、欧米におけるグローバリストと呼ばれる人間グループの思想的背景にも、それは色濃く残されています。
西欧文明というものが、無神論の資本主義によって世界支配を実現したのに対して、極東の島国では、神と共に歩むことを自然に組み込んだ日本主義とでいうべき統治と経済のシステムが、ほぼ完成していたという見方も、江戸幕府の治世に対しては可能なほど、権威と権力と富の所有が分離された社会がそこにありました。
神の存在が前提で、朝廷の権威があり、その権威に委託される形で権力は、暴力機構をコントロールするというシステムでは、武士に代表される、中間的支配層が大きな存在感を持ちました。
その中間的支配層を破壊してきたのが、ヨーロッパにおける革命の歴史で、それは、アメリカ大陸で独立戦争によって成立した国家を生み、次にロシア帝国の崩壊で誕生した旧ソ連邦を生みました。今の中国共産党の支配地域も、この一連の動きで生じたものと考えればよいのです。
その日本文明が、世界に参加する前に用意された無神論の地球観は、いまの日本社会にも深く浸透し、政治、経済、マスメディアやアカデミズムの世界の主要な価値観になっていますが、その根拠となった資本の正体が明らかになりつつあることで、これからこのマネーの仕組みの崩壊がはじまります。
日本のバブルを学んで、土地本位制のような仕組みで経済成長を続けたチャイナの経済が行き詰まり、同じように、不動産で信用創造を急拡大したアメリカ経済も、危機に向かっています。
この先に、日本人の中で、マルクスの資本論の次のモデルが提示されると資本主義の次の時代が見えてくるというわけです。

神紀三年(二千二十三年)六月一日 積哲夫 記