Vol.800+30+33

日本の勝利

この二千二十三年の五月、広島のGセブンサミットに合わせるかのように、あの戦争に、日本が最終的に勝利したことで、外地で死んだ日本の民間人のたましいの帰還がはじまったとの報告が、精神界よりありました。
あの戦争とは、日本で大東亜戦争と名付けたもののようですが、もしかすると、それはもっと古い戦いで、ある領域では、それこそ黒船以来、戦争は続いていたということのようです。
それに合わせて、三輪の大物主の神が、崇り神として、再登場し、今度は、地球規模の崇りを生じさせるためのハタラキをスタートさせたという報告も来ています。
一神教の悪魔が、この地球の人間の意識をコントロールしているこの時代に、日本の崇り神が、どのように、祟るのかを、これから私たちは見ることになります。
その崇りの影響で、たぶん、世界経済は混乱し、アメリカの民主主義も、チャイナの共産主義も、その国家体制と共に終焉に向かうことになります。
この大物主の神の崇り神としての復活に先立つものとして、日本の第十代とされる崇神天皇の霊的復活のようなものが、奈良の石上神宮と大神神社を結ぶライン上で生じたことは、すでに報告したことですが、これは、記紀の時代が終わり、プログラムとしての神話ではなく、本来の日本史が、人知の側に移る用意でもあるのだと考えられます。
この崇神天皇の世に、伊勢の仕組みもはじまったということと、考え合わせると、次の世界のモデルが、そこに提示されていると見ることができます。
人間は、あるいは、この世の統治者は、崇り神を改めて、祀ることになるという近未来の姿です。
現行の科学技術の先に、そんな世が来るとは、ほとんど考えられませんが、たぶん、これからの人知は、神というものを再発見します。そして、その影響力を認識した上で、次の文明モデルを作ることになります。その時のモデルとなるのが、日本の神の仕組みであり、政治とはマツリゴトであるという日本古来の知恵なのです。
無神論に基づく、民主主義は、一部の特権を握る人間の支配を正当化するための隠れみのに過ぎないことに、地球上の多くの人間が気付いています。
もともと、かつての大日本帝国が戦争に突入したのは、民族の自決や平等という理念のためでもありました。そこには、幕末の吉田松陰などの日本の思想家、思索者たちの伝統が継承されていたともいえるのです。
いまある世界の流れや、動きは、すべて、経済原理だけで説明できるようなものですが、それを、人間史のレベルにすると、そこには、神的なもの、精神的なエネルギーの関与なしに生じない事象が連続しています。
その神の関与なしに、人間が歴史を作るとどうなるのかの実験を、近現代の世界史は示しているともいえるのです。その文化文明が行き詰まったのが、この二十一世紀で、そこでは、人間の生産活動そのものが、人工知能といわれるものによって置き換えられ、人間の存在意義、そのものが問われることになっています。
人間のたましいというものの目的がないと考える唯物論者の頭の中では、生命体としての人間の役割は終わっていても、不思議ではない時代がそこにはじまっています。
このタイミングで、人間は、人間の力では、どうすることもできない何らかの力、生かすことも、殺すこともできる、ある種のエネルギーの影響下で、自分たちは、存在しているという現実に直面するように、宇宙規模での用意がなされていたと知るのです。その入口にあるのが、人間が作り出したマネーのシステムの崩壊です。それは同時に、マネーのシステムから解放される人間社会のあり方を、考える人間グループの出現を促し、そこから、資本主義や民主主義の次のモデルが生まれることになります。そのモデルの用意が日本にあることを、これから世界の人々が知る日が、この勝利ではじまります。

神紀三年(二千二十三年)五月二十五日 積哲夫 記