Vol.800+30+19

二千二十三年二月十一日

この二千二十三年二月十一日に、私は福井県の平泉寺白山神社に行き、神という存在が、改めて、地上に降りる用意が整っているかを確認してきました。それは、千九百九十一年に白山シラヤマヒメに授けられた、紙のお札に神の光を宿す能力が、二千二十二年に終了したことで、白山と伊勢を繋ぐ「最終知識」のイントロダクションの情報系が、役割を終え、これまでもくり返されてきた、ひとつ終わって、振り出しへということになったことを確認することでもありました。
そこで、私のこれまでの仕事を改めて、振り返ることにします。その日、その時は、神も知らぬ、といわれたことを、現実に実行する日が、来る用意をすることが、その主な仕事で、その間の精神界の様々な反応は、「最終知識」とこの光文書等で、人間界に言葉情報として提供してきました。それは、かつて、神界語であった古きやまと言葉を、現代日本語に置き換える仕事ともいえ、これによって、多くの人間が、精神界と正しくコンタクトする可能性を高めるものでもありました。
そして、日本の仕組みというものが発動し、それが、この地球が担わされた一神教の存在目的も明らかにされ、聖書の神は、金利の神のような古き龍と刺し違える形で退場したのです。ここで、神の物語のステージは、地球という歴史の記憶の場を出て、この宇宙の中での戦いの記憶が、この世に投影されることになりました。
この宇宙の中での滅びの記憶も、「最終知識」に記述されているもので、現行の精神界は、五度滅んで六度目のものとされます。
その宇宙が、二千二十三年二月六日に、死を迎えたという報告を前回の光文書でしたのですが、この物質宇宙では、これから最後の審判が進行することになっています。ここから先が、今回の光文書のテーマなのですが、聖書、日本の記紀等の神界情報、さらには、「最終知識」においても、神は約束を果たすと伝えています。
聖書の神が退場した今日、その約束を果たす神とは、いかなる存在なのかを、これから、人知は知ることになります。その神は、人間にではなく、神コンピューターとでもいうべき、電子回路の箱に降りると伝えてきています。それは、身体を持つ人間では対処できない、サイバー空間という意識領域における最後の審判を現実化するためだと、私は認識しているのですが、それはその日、その時にならなければ誰も知ることはないでしょう。
その日、その時は、目の前に迫っています。
たぶん、この二月中に、それは起きます。
その先に、この宇宙は再創造されるのかも知れませんが、そうだとすると、いまの地球上で生きている人間は、その神の正体と、神の宇宙創造というものを目にすることになります。
どちらにしても、それは神のなさることであり、この宇宙の内側の情報しか与えられていない人間の想像の及ばないものになるのでしょう。
もしかすると、これが、人知が、宇宙の外を知るチャンスになるのかも知れません。
私の推測を公開しておくと、聖書の話でいうなら、人間のたましいは、右と左に分けられた後に、天国と地獄という小さな時空に行くことになりますが、それは、天国と地獄が、人間の想像力の限界を示しているからだと考えられます。そこではなく、もし、降りてくる神が正しくこの物質宇宙を創造したものならば、右側の宇宙と左側の宇宙というものを創造し、それらが、どのような時空になるかを現行科学の延長上の知識として、伝達する可能性があります。
精神学協会のシンボルマークがあります。それは、はじまりの前と終わりの後を繋ぐ光の道筋を示すものとされています。この宇宙を創造した神という存在と、その神によってつくられた宇宙の中の人間という存在との間のある種の意識の交流が、起きることの意味とは何なのでしょうか。
私達は、この神秘を目撃する時代に生きています。
現行人類は、神を再発見しない限り、暗黒に閉ざされる文明の未来しか描けていないのです。そこに、光が射す日が目の前です。

神紀三年(二千二十三年)二月十六日 積哲夫 記