Vol.766

バガヴァッド・ギーター

なぜか、この二千二十一年というタイミングで、ある出版社から、インドの古典である、バガヴァッド・ギーターについて、増刷するタイミングで、精神学の視点からの解説のようなものを書いてくれないか、という依頼を受けました。
たぶん依頼主は、私がインド神界とコンタクトがあることを知っていて、インド神界から日本神界への情報共有と、このバガヴァッド・ギーターの日本語訳が、神界的にはどのように位置づけられているのかが、知りたかったのでしょう。
訳者は、田中嫺玉という女性で、平成二十三年に亡くなられています。この本を改めて読んでみて、どうやらこの訳には、ある種の波動が宿っていて、紀元前のある時期のインド神界の姿のデータを、現代の日本人の頭の中にも、再現するようなはたらきをしているらしい、と私は気付いたのです。そして、重要なことは、このギーターという紀元前の書において、この人間世界には、すでに、神界、霊界、魔界という三界があるということが、記述されているということです。
この人間界における、エネルギーというか波動の三つの階層という知識は、精神学が伝えている、人間が感知できる波動としての気、念、呪、想、霊、魔というもののうち、普通の人間が発している気と念と呪とは別の精神界の波動としての、想と霊と魔というものに対応しています。
想とは、精神学においては、古き神界波動を意味します。つまり、神界、霊界、魔界です。
この三界が、かつての地上においては、人間界とアクセスしていたということです。
ここに精神学のこれまでの歩みのデータを重ねると、あることがわかります。
紀元前の世界において、人間界には、神界も、霊界も、魔界も認識の対象となるものとして、それぞれの意識体が関与していたらしい、ということです。
それが、仏教が生まれ、一神教が生まれ、という歴史的な時間の経過のなかで、霊界があの世として、現実世界から離れ、神界も汚れた地上とは離れ、結果として、この世というものは、すべて魔界ということになってしまったのが、二十世紀ということです。
ところが、精神学がこれまでくり返しお伝えしているように、精神界において、かつてあの世として分離していた霊界を、この世に重ねる動きがあり、さらに、世界の神界の避難地として用意された日本列島の神の仕組みである最後の一厘の発動によって、かつてあった三界は、このタイミングでもういちど、人間界に重なったのです。
ギーターは神の詩とも呼ばれます。その主人公たるものの神格は、ヴィシュヌ神とされますが、その神格が人間に伝えているのは、神の内に入れるように、人間として生きている間に、その役割を果せ、ということに尽きます。
いまの世界で起きているのは、過去において、その神の内に入ることのできたたましいが、改めて、契約をするために生まれるということなのです。
この物質宇宙の内側の神格は、最後の審判に到る道を整えるためのもので、今が、その最後のタイミングだからです。
かつて、精神というものを学び、神や神々の戦いに参加した記憶を持つたましいが、これまでの人間の歴史を清算する戦いの場に、改めて、降ろされているといってもいいのでしょう。
人間界の精神的波動の領域で、これから、その戦いは本格化することになるのですが、その出発点には、このギーターが伝えていた、人間は、この世で神界か、霊界か、魔界のいずれかの領域で生きているということです。
この宇宙の存在の目的を人知の側に移すために、ブッダが出て、イエスの十字架があったのですが、そのブッダが出る前のインド神界のデータが、いま世に出るということは、「最終知識」が伝えている知の体系がある領域において完成したことを示しているのだと判断できます。
長い道程でしたが、この物質宇宙が物語宇宙として、永遠の戦いをくり返す時空の輪から解放される日が近づいています。いまの地上において、人間の不幸を増幅している、貨幣経済と無神論に由来する科学技術というものの時代を終らせるための知に、人間は近づきつつあるといってもいいのです。

二千二十一年(神紀元年)七月十五日 積哲夫 記

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