Vol.701

日本の血の呪い

この二千二十年四月四日の大分のカウンセリングにおいて、日本列島のこれからの大事なテーマとして、黄泉の扉が開いたことの影響が、どのようなものになるかの告知が精神界から伝達されました。それに呼応するような事象が、四月十一日に、和歌山の精神学協会の支部長のお母さまのお葬式、光への送りを、私がマツリヌシとして主宰させていただいた際に生じたので、報告させていただきます。
支部長のご母堂は、もともと、大阪で廻船問屋を営んでいた、皆元という姓のご出身で、その皆元とは、源氏の源を記憶するためのものだったようです。その方は、戦中に和歌山にこられて、真言宗醍醐寺派の僧侶であったご主人と結婚され、そのご主人と三十八歳の若さで死別され、三人の子供を育て、九十三歳の天寿を全うされたのですが、生前から私に送ってほしいという希望があり、今回のマツリヌシとなったわけです。
その不思議は、葬儀の会場ではなく、焼き場で起きました。私の知覚に、ご母堂とそのご主人のほかに、多数の人間霊が現れたのです。どうやら、それは、源氏の一族らしく、その記憶が、この世の側に流れ出したという印象でした。つまり、あの世が、この世に流入したと感じられたのです。その彼らが、私に感じたらしいのが、同じ血の匂いのようで、先祖に源為朝がいるという伝承もあながち嘘でもなさそうだという印象を得たのです。この時期に、なぜ、こんなことを書いているかというと、すでに、ご報告したように、三月七日に百歳の天寿を全うした死んだ私の母と同様に、死というものの意味が、過去とは変わったことを、この出来事は示しているからです。
前にも書いたように、人間の歴史は、この二千二十年前と二千二十年後で、変わったものになるということが、死後の世界についても起きているのかもしれません。
その話の延長で、私がかねてから気付き、機会があれば、言葉としても伝えてきた、積家の呪いというものがあります。なぜかわかりませんが、ある日、私の頭の中に降りてきて、それで、私は私の運命と、一族というか、親兄弟が幸福とは別の道に導かれる、ある種の原理があることを知ったのでした。
私の祖父、岩五郎は、奄美大島の生まれで、幼少のおり、一家がコレラで全滅し、破産。若い時に、蛇味線一本を持って、やがて、父の母となる女性とかけ落ちして、大連に行き、それなりの成功を収めて、息子を東京の大学に進学させます。その息子の賢治は、結婚後の昭和十七年二月に応召、中国大陸で幹部候補生としての教育を受け、昭和十九年三月に独立歩兵第十四大隊に転属。沖縄で第三中隊の小隊長として、戦い続け、昭和二十年六月二十八日に負傷のため、自隊医務室に収容。八月二十一日に米軍第八十八野戦病院に入院したという記録が残っています。
その積賢治が自死したのは、昭和四十一年八月十日で、その死の直接の原因ではないにしろ、その死への誘惑の原因になったのが、当時、勤務していた大阪刑務所に収監されていた、「ヤマザキ、天皇を撃て!」という事件をタイトルにした本で有名な奥崎謙三との面談であったのは間違いのないところでしょう。
奥崎は、戦争中の南方で、「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」といわれたニューギニアの帰還兵でした。
積賢治は、沖縄で、米軍の上陸直後から、最前線で戦い続けた、第六十二師団の数少ない生き残りでした。そして、生き残って、わずか二十一年しか生きなかったのです。
積賢治の死後、その小宇宙のなかにいた、多くの英霊たちのたましいを、その息子であった私は、相続したのです。それがなければ、「最終知識」という書は、生まれようがありませんでした。
同じようなことが、これから日本中の選ばれた人間の小宇宙のなかで進行するはずです。
日本人の血のなかには、そうした過去の呪いのようなものすら、相続してしまう、ある種の資質が隠されているのです。その資質を言葉を変えていうと、救世主や神の遺伝子ということもできるのでしょう。
過去の負債を、これから人間は意識化することになります。そのために黄泉なり、霊界の扉が開いたと知ってください。
人間のたましいは、過去と無縁ではないのです。

二千二十年四月十六日 積哲夫 記

 


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