Vol.553

東京の不幸

戦後の地方政治の利権構造に風穴をあけると期待された、小池百合子東京都知事が、単なる政局の人であったことが、はっきりしてきました。
このクニの中心であるはずの東京都は、二十一世紀に入って、正しい地方自治を担うという自覚のない人間ばかりを、知事に選んできたことになります。
地方の首長の多くが、有力な地方新聞を敵にまわすことを怖れていますが、現在の東京のマスメディアは、反対に小池知事を怖れているようにみえます。その一方でマスメディアは、現政権に関しては、小学校の新設問題から、獣医学科の新設問題まで、忖度という言葉に関する神学的解釈が、日本政治の主要テーマであるような、報道をくり返しています。
私は、すでにメディアの死をお伝えした立場なのですが、このタイミングで都知事の問題とメディアの問題を記述するのには、ついに戦後のシステム全体の崩壊がはじまったことを多数の国民が認識しはじめたからにほかなりません。
このような政治的事象を、この光文書でとりあげることは、例外的なことなのですが、小池都知事と同様にここで記述したことのある青山繁晴参議院議員が、過去において米軍とのミーティングに参加したときのエピソードとして、米軍側は小池百合子という人間を、知らないことを知っているふりをする人間、と評価したと発言していたことを報告しておきます。なぜ、このようなことを記述するかというと、東京の不幸と、メディアの不毛と、いま進行中の日本国内における反日的な人間グループの活動は、たったひとつの根に由来するものだからです。
それを私は死んだら終わり文明と呼んでいます。戦後教育のなかで、戦前の唯物史観の洗礼を受けた人間グループに特権的なポジションを与えたのは、占領軍の内部にいた共産主義にシンパシーを感じていたものたちでした。その行動原理は、二度と米国に異を唱えるような日本が生まれないようにするという、昭和憲法を押し付けたのと同様のものでしたから、当時のGHQにおいても異論は出なかったのでしょう。その共産主義へのシンパシーを感じて行動する人間が、アメリカ国内においても問題となった後でも、日本における教育の問題が問われることはありませんでした。この日本無力化の意志は、現在も、アメリカの支配層に受け継がれており、これがなければ、大陸の共産国家や半島の国家群の反日活動への情熱も生まれようがないし、同時に、国内における反日日本人の活動にマスメディアがシンパシーを示すこともないはずなのです。つまり、ここに到って、アメリカを使って、日本を支配下に収めた、アメリカを支配している人間グループの日本無力化戦略は、ほとんど成功したということになります。
ところが、現実には、日本国民の五十パーセント以上が、マスメディアが主導する政治的勢力の主張に反して、安倍政権を支持する状況が続いています。はっきりしているのは、日本人の多くが、反グローバリズムの立場で、世界との均一化には強い抵抗を示しつつあるということです。文物や情報の交流は自由でよいけれども、移民には反対という、平成の鎖国という政策を掲げる政党が出現しない理由を、そろそろ、一般の日本人が考えるべきときが来ているともいえます。
いまの政治の現場にいる人間に、決定的に欠落しているのは、世界の真実と向き合う勇気なのです。
政治家や評論家が、マスメディアの希望するストーリーを語り続けて、明日も生きられると信じられる時代は、すでに終ったといってもいいのでしょう。
精神界は、こうした時代がくることをくり返し警告してきました。戦前の大日本帝国は、ほとんど全世界を敵にして、あの戦争に突入したのですが、明治維新から、一千九百四十五年の敗戦に到る時空と、敗戦後から、今日に到る日本の時空は、同じものではないのです。そして、この二つの時空と、江戸時代末までの日本の時空も断続させられています。
精神学は、その時空の断続を、ひとつの物語として再統合するためにこの世に降ろされたものですが、その天の意志は、はじめに日本で、右と左に民は分けられるという聖書の予告を、現実化するものにほかなりません。
死んだら終わり文明の信奉者たちには、死んだら終わり、という運命が待っています。いまの東京は、その死んだら終わり文明の象徴として存在しています。その運命を現実化するために、都民が選んだのが現都知事だとすると、二千二十年のオリンピック後の東京または日本の姿に、日出ずる国のイメージはなくなっているのかもしれません。

二千十七年六月十五日 積哲夫 記