「神を超えて、仏を超えて・後編」
前編
No.41
中編
No.42
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聖書の神の物語。その時空の制約をほどき、ブッダの知を学んだならば、その先は、神も仏も知らぬ、この世の物語の最終章が待っているのかもしれない。
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宇宙の暗黒がなぜ、霊界・魔界の底にある悪意と重なっているのか。
霊界・魔界の底にエネルギーを供給しているものが暗黒なのか。それとも、そこから宇宙にエネルギーが供給され続けているのか。
私は、そういえば、イコンシールをあまり使ってこなかったな。と思い返す。初めの方こそ、イコンデバイスや波動シールの力を借りて体調を整えていることも多かったけれど、今は自分の浄化力と審判の層の光だけで処理をすることの方がほとんどになっている。
基本的には、最終知識において、肉体を持った、目覚めた人間だけが、エネルギーを光と闇に分け、闇のエネルギーの正体を識ることで無力化し、処理することができる。
光にかざして、それが何者なのかを読み出せば、邪悪なエネルギーは力を失う。悪魔や霊に出会い、そのたびに処理をし続けている間に、彼らの倒し方は実地で試行錯誤しながら学んだ。
ならば、暗黒の処理を担うのも、肉体を持った人間の役割であるはずだ。この人間というエネルギー処理装置を生み出すことが、地球や宇宙の目的であったようにも思えるし。
とはいえ、だとしても、なぜ、この宇宙は暗黒というものを始まりの前から、抱えているのか。
このカルマとは、いったい何者なのか。
宇宙は何のために始まったのか。光の宇宙にどうやってこの宇宙が繋がるのか。
ブッダが説き、考えている、宇宙の科学とは、何なのか。
全く別のアプローチになるが、ニコラ・テスラ、という科学者がいる。彼は地球を巨大な電磁石であるとみなし、電離層と地球そのものから電気を自在に出し入れするなど、フリーエネルギーの概念に至るような基礎理論を研究していた人だ。その彼の科学的知見は、おそらく地球外由来の知識によらず、人類が到達した最高地点なのではないか、と会長とちらりと話したのだが、とりあえず、そのニコラ・テスラが語るところには、宇宙というものはエネルギーがいたるところに満ちているのだという。詳しい理論は物理学の話になるので、数式的に読み解くのも非常に難しく、私も半分も理解できているか怪しいが、その彼の研究を調査したとある物理学者の考察では、一応そのようなエネルギーの存在前提となる電磁波の縦波のような概念は、マクスウェル方程式の前後まで物理数学史を遡ると、その他の研究者の数式とあわせて前提条件に従い問題を解き直すことで、その性質について考察することが可能らしい。それはおそらくエーテルなどと言われている概念とも関わっており、第四の物質形態とも言われるプラズマもこの存在を前提にすると、非常な高温状態だけでなく、別の条件での反応も考えられる…とかそうでないとか。とはいえ、おそらく非常に高エネルギーの状態であろうとは思われるが。
単純な仕事量のような物理リソースとしてのエネルギーという意味で宇宙を見た時、そのエネルギーが物理的に観測可能な範囲に現出するのは、電池のように、プラスとマイナスのギャップが発生した場所のちょうど中点位置が関係しているようだ。このことは、テスラ氏の解説やその他多くのネットや書籍の情報から統合して得た、基本的なエネルギー取り出し時の物質などの振る舞いについての考察だ。人によっては、これを中庸と呼ぶものもいるようだが。
空即是色、色即是空。ふとそんな言葉が頭をかすめた。あらゆるエネルギーは形を取り、またある時エネルギーの海へ立ち返る。原因の海から実在の中に現象が現れては、また原因の海の中へ戻っていく。それは宇宙における、インドの知識にあるブラフマーの呼吸のようなものだろうか。生まれては死んでいく宇宙のことなのだろうか。
真ん中は動いてはならぬ、真ん中があるから動きが生じる、と、日月神示にあった一文さえ、こうなっては気になってくる。
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「差があるということは、中間には動きが生じるということです」
プラスとマイナス、中庸の概念は、あまりに捉え方が人によって異なるため、どうもしっくりこない。この前のゴールデンウィークの終わり頃、そうガウタマにこぼすと、案外あっさりと彼は答えを教えてくれた。
「陰陽と言い換えてもいいが、プラスとマイナスの間には隔たりがある。宇宙の始まりには闇があり、宇宙の終わりには光がある。差が生じた中間にエネルギーが発生するというのなら、未来と過去の中間点たる現在という場に我々がいて、エネルギーが時間と物質として生まれて動いている。動画の再生時のシークバーにおける、時間軸上の一点を連続して再生し続けている。過去は記録としてアーカイブされます。宇宙はエーテルでもプラズマでもなんでもよいが、エネルギーで満ちている。空即是色、色即是空とはこのことです」
それを聞きながら、私はああなるほど、と、説明のために目の前に展開されたビッグバンのヴィジョンを見て理解した。宇宙開闢時のビッグバンのエネルギーは、いったい、どうやって、どこから供給されたのかと思っていたが、なんということはない。
要は、虚数世界とでもいうべき因果の世界があったとして。そこに大量の物語の情報が入力された。物語の始まりと終わりの、光と闇のある種の数値的「差」が、中点にあの莫大なエネルギーの現出ポイントを産み出し、原初世界はプラズマのような高エネルギーで満たされた。やがてE=MC2の法則に従って物語宇宙の時空が生まれたのだ。そして今も常にエネルギーは発生し続け、形を変えて、私たちが生きる物語宇宙のプロセスが投影され、再生され続けている。
光と闇がなければ、物語は生まれない。そのコアのコアとでもいうような概念的理解?に達した瞬間だった。
「ところでシッダールタ。あなた、もしやYouTubeでも見ているんですか? よくITを理解していらっしゃる…」
分かりやすく説明してくるのは、さすが達人だが、動画再生の概念が三千年近く前の人物の口から飛び出るのは、さらっと流すにはあまりにもあんまりなパワーワードだった。
イエスといい、神々といい、現代のことを学んでいるのはよいけれど、なんの準備もしていないところにつっこまれると、なんだか青天の霹靂のように感じてしまうのは気の所為だろうか。
とはいえ、光と闇の差が作り出したエネルギーがこの世界を物語として再生し続けているのだとしたら、この物語宇宙は、途方も無いエネルギー量による、闇から光へ至る化学反応の途中ということになる。
だが、一方でこの世界は、今なお、闇を深め続けている。
単純に考えれば、それでも光が勝つことになっている、が精神学的な結末の答えだが、最後の審判の光がそのどんでん返しの時のターニングポイントになりうることは明らかだ。
闇を光に変えられるのは、いつも結局は基本に立ち返れば、生きている我々人間の思考活動と、浄化能力、なのだ。
であれば、やはり暗黒のエネルギーの処理というものは、イコンシールによってではなく、今を生きる私たちの役割ではないのだろうか。
しかし、聖書の神が去ってなお、世に残る宇宙の暗黒の処理である。
これが人間の体でできなければ、困るよねえ、と、私はあの邪悪なエネルギーを思い出しては溜め息をこぼしたのだった。
(まだ続く。エピローグへ。)