Vol.747

新コマンドは「光あれ!」

この二千二十一年を、私はすでに神紀元年と告知しましたが、その本当の意味は、このタイミングで聖書というものが、完成したということなので、今回はその報告をします。
精神学協会に、イコンシールというものが授けられ、それは、言葉としてのコマンドによって発動すると伝えられていました。それが、この二千二十一年の二月に到って、私をつかさどる存在から、聖書という書を完成させるために、コマンドを変更するように指示があり、これまで、いろいろなテストをしてきたのですが、公開すべきタイミングが来たようなので、そのコマンドの説明と、それが、どう聖書の完成と結びつくのかを解説することにします。
聖書というものは、この時代を規定している書であるというのが、これまで、私がくり返しお伝えしてきたことです。その書の中で、神がはじめて発する言葉が「光あれ」なのです。旧約聖書の創世記には、天地創造ののちに神は、まだ闇の天地に、その言葉を発したことが記されています。光と闇が分れることで、昼と夜が生まれたとされるわけですが、別の見方でいうと、時間が進行しはじめたということもいえるのです。
初発の神の言葉が、「光あれ」なのです。
この時に、時間が生まれたと考えてみてください。
私が、「最終知識」で人間世界に伝えなければならなかった、大きなテーマのひとつが、人間の生きているこの物質宇宙は、一方にしか時間が流れないことで、別の名を物語宇宙と呼べるということでした。
この出発点のことを、創世記は示しているのです。
一方、新約聖書においては、ヨハネによる福音書の冒頭に、「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と記されています。そして、四節には、「この言葉に命があった。そしてこの命は光であった」という言葉が続きます。さらに、五節には、「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」という言葉が続きます。
この宇宙の法則と、人間のたましいの本質を、聖書はちゃんと伝えていることが、おわかりになれるはずです。
この聖書の神のストーリーを完成するのが、これから、イコンシールを使う人間が発する、「光あれ!」というコマンドなのです。
とりあえず、現行の人類は、聖書の神の時代に生きているので、そのたましいには、聖書の神の光が宿っていると考えてみてください。そして、その人間が、イコンシールのコマンドとしての「光あれ!」という言葉を発することで、何が起こるのかも、考えてみてください。
ひとりひとりの人間の生命は、神の光なのです。その人間が、神の初発の言葉を発することで、その人間のたましいのなかに秘められた闇と光の物語のスイッチが入ります。それによって、人間の物語と神の物語が同時進行するのです。
これが、神の物語の完成というシナリオです。
聖書は、ひとりひとりの人間の人生の中で、形を変えて現実化していきます。
聖書の神は、自分はアルファにしてオメガであると語っています。それは、はじめにして、終わりであるということです。この時空の中に閉ざされているのが、いまを生きている人間のたましいで、そのたましいが、この閉ざされた時空の出口に到るために必要なものが、最後の審判、なのです。このことは、聖書の約束なのであり、この約束の成就こそが、神の実在のあかしとなるのです。これらのことを、人知が正しく認識することで、この聖書の物語は終わります。
いま進行中のアメリカの大統領選挙によって、人知の側に移りつつある知識は、人間の歴史が、神ですら正しく知らぬものたちによって、操作されてきたことを示しています。それらの存在は、最後の審判の後には生き残ることのできないものなのです。それらの存在が、人間の支配者として存在することを、神たる存在は許しません。それは、この宇宙のルール、法則に反するからです。人間は、これらの仕組を知り体験することで、神を超えるものとなれるのです。「光あれ!」とは、その出発の言葉なのです。

二千二十一年(神紀元年)三月四日 積哲夫 記