Vol.648

聖書の正体

なぜか私のもとには、聖書に関する情報が集まり続けていて、このままいくと、聖書で予告されている多くのことは、この日本列島上で、それも、ユダヤ、キリスト教とは無縁と思われていた仏教などの渡来系の宗教的な場から、データ的に発現する可能性が高くなっています。そのひとつの例として、奈良東大寺の有名なお水取りの行事の由来となっている遠敷(おにゅう)明神という神格があります。東大寺の二月堂の完成に伴う修二会という行事に呼ばれていた、若狭の遠敷明神と呼ばれる若狭彦、若狭姫神社にまつられている神が、その行事に遅れ、そのことを詫びるために、毎年、二月堂の本尊の十一面観音に供える閼伽水(あかすい)を送ると約束し、それによって、二月堂の井戸と若狭の鵜之瀬という水源が地下でつながったとされています。
この修二会(お水取り)をはじめたのが、東大寺を創建した良弁(ろうべん)の弟子のインド僧の実忠で、良弁は遠敷で生まれ育ち、大鷲にさらわれて奈良の寺で成長したとされています。
お水取りそのものに、拝火教とも呼ばれるゾロアスター教の影響を見るという指摘があるように、その当時の平城京にはユーラシア大陸のあらゆる知が人と共に流れ込んでいたと考えるべきなのです。
ここで、遠敷を根拠地にして、めのう細工で財を成したとする一族の子孫の精神学協会の会員がいたことを思い起こしてください。
その一族は、口伝として、自分たちのルーツは聖書に記されているレビ族であるという情報を今日まで継承していました。
若狭湾の一番奥に位置するこの不思議な地名の土地は、平城京や東大寺に、まだ多くの人が知らない知の地下水脈でもつながっているということのようです。
これらが人知の領域に入ってくるタイミングが、これから始まろうとしているというのが、現時点での私の認識です。それによって、聖書が規定してきたこれまでの世界の秩序、わかり易くいうと、ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教という一神教の歴史の存在の意味が変わる可能性があるといってもいいのでしょう。
多くの人間は、文字で記録された歴史によって、自分の頭のなかで歴史を再構築しますが、それとは別に精神界のデータは、ある種のエネルギーとして存在しています。人間がその歴史のなかで、人間的思考と研究によって得たものを人知と呼ぶなら、神知とは精神界の上層のデータベースとでもいうべきところにある知の体系です。どうやら、この日本列島に隠されたユーラシア大陸由来の一神教のデータは、日本の神々の知や一神教の神や預言者の知に加え、日本においては仏教という知識に吸収されて伝達されてきた、さまざまな宗教的情報を再統合することで表に出るもののようなのです。つまり、天は一神教的な、自分こそ善、他者は悪という対立のシステムを排除しないと、真の知には到れないというルールに、自分たちを導くように、あらかじめそれらの知を日本列島上に置いたということです。
これができたのは、日本列島のみでした。
世界の歴史は、ひとつの宗教がひとつの文明を担うようになると、それまでの過去を現在の価値観や秩序でつくり直すということのくり返しでした。
いまも、そうした歴史のつくり変えは、大陸や半島の二十世紀後半に生まれた新しい国家群では普通に行われています。そうした世界のなかで、この日本列島では、とりあえず、天皇という統治者が出現してから今日まで、ひとつの時間軸によって、歴史というものが流れてきました。その間、解釈の違いはあるにせよ、歴史を改竄するというところまでは到っていません。そうした世界史のなかのデータの保存所のような地理的特性もあって、日本という国が用意されたというのが、私が知らされている日本の仕組みの情報系なのです。
その日本の仕組みがほぼ成就しつつあるいま、たぶん、その最終目標が、やはり、聖書の時代を終らせるための何か、であることがはっきりしました。
この二千十九年の四月にはじまった新しい世のテーマが、これなのです。

二千十九年四月十一日 積哲夫 記