Vol.640

子殺しのクニ

かつて、世界で最も子供たちが大切にされていたとされる日本で、親が子を殺す悲惨な事件が、続発しています。同時に、養子にした子供を対象にした性的虐待なども事件化しはじめ、犯罪の質がアメリカ化していることがはっきりしてきました。これが、敗戦後、長く続いてきたアメリカ文明による洗脳の結果だということを、そろそろ、多くの日本人は気付かねばならない時期に突入しています。私がくり返しお伝えしているように、敗戦後のこのクニは、はっきりいってアメリカを支配していた悪魔に捧げられたのです。悪魔教というキーワードで調べてみれば、多くの子供たちの血が、この世俗でのパワーの代償として求められることがわかるはずです。その悪魔支配の特性ともいうべき、事件が多発する社会は、結局、一握りの支配者に従う人間にあらざる人間と、彼らの奴隷、または生贄としての大多数の人間という西欧文明の暗黒面を現実化する社会として、すでにハリウッド映画などの世界では、描かれた未来への道にあるといってもいいのでしょう。
このクニで、子供が生まれると、神社に参り、七五三で神社に参りという文化があるのは、日本人が伝統的に、子供は天から授かったもの、または、天から預かったものという、子供は神のものという無意識ではあっても、民族的な合意があったからでした。
それが、敗戦後教育のなかで、いつの間にか、子供は親の所有物となってしまい、天という真の親権者の存在が忘れ去られました。
戦前の兵士たちが、天皇の赤子とされたことへの反動という説明では、この子供の地位の低下は説明がつかないものです。結局のところ、子供の人権というものを最も侵害してきたのが、人権を声高に主張する人間グループだったということになります。教育界とメディアの人間に、たぶん、無作為の犯罪に手を染めたことの自覚はないでしょう。しかし、天は見ています。そうして生きた人間が、最後の審判で、どう裁かれるのかを、これから、多くの日本人が知るようになるはずです。
いままで、あの世は、この世の外側にあって、生きている人間は知ることのできない世界でした。ところが、ことしの二月三日の節分の日にイザナミの主宰していた黄泉のクニの扉が開放されたことで、これからの人間は、黄泉のクニのさまざまな存在にコンタクトすることが可能になります。つまり、いままで、特別な人間しか知ることのなかった世界を、多くの人間が感知できるようになるということなのです。
親に殺される子供たちは、その運命を与えられて、この世に生を受けたのでしょうか。人間は、親を選んで生まれてくるというのが、たましいのルールなのですが、この日本列島では、そうした、ムスビのちからが弱まりつつあるのかもしれません。
ここで、前回の光文書で記した、日本人のたましいのもとには、イザナギ、イザナミ、キクリヒメの三位一体のデータがあるということを思い出してください。キクリヒメのムスビのちからなしに、人間の身体に、神性のあるたましいは宿れないはずなのです。私は、親に殺される運命を選んで生まれてきてしまった子供たちが急増している背景には、日本列島そのものの神的なエネルギーが急激に低下していて、ほとんど、アメリカその他の地域と同等なものになってしまったということがあると信じています。実は、それが、このクニは悪魔に捧げられたと、私がお伝えしていることの意味なのです。
明治維新からの百五十年は、この日本列島をつくるための歴史であったというのが、精神界が伝えている、日本の仕組みなのであり、西欧の一神教の文明圏の人間が信じてきた、最後の審判の舞台は、このようにして日本列島に用意されたということです。
そのために、今年の一月十一日に、宇佐八幡の鉾立神社から、イエスの神格が地上から天にかえられました。たぶん、これから、世界中で、「私はすぐに帰ってくる」といったイエスを幻視する人間が増えるはずです。黄泉のクニの扉が開いたということは、殺されたものたちの証言が、天に届くということでもあるのですから…。

二千十九年二月十四日 積哲夫 記