炒り豆に花が咲いた

この二千十九年の二月三日。大本教の出口ナオが伝えていた炒り豆に花が咲くという日が、精神界において現実化しました。何が起きたのかというと、黄泉のクニの扉が開かれ、節分の豆まきによって封印されていた鬼たちが、この地に解放されたと、私は認識しています。
つまり、炒り豆に花が咲くというのは、死霊や鬼神といった、この世にあらざるものたちもまた、最後の審判の前に、何らかのかたちで復活するという予告だったということです。
現世に、あの世が重なっているというのが、この二十一世紀の日本の姿なのですが、最後の最後に出てきたのが、日本神話の黄泉のクニでした。
そこで私が出会ったのは、黄泉の主宰神となったイザナミであり、その存在の目標こそ、この世に花を咲かせることだったのです。
ここで、私を導いた神々の情報が、一気に出はじめたのが、千九百九十一年のリンゴ台風と呼ばれている台風十九号の日本列島縦断に伴なう、全国各地の神社の被害で、とくにご神木とされてきた巨木が倒れたことが後世、はじまりのしるし、として記憶されるようになるということも私の頭のなかには伝えられていました。
そのなかでも、とくに重要なのが、白山比咩神社のイザナギ、イザナミ、シラヤマヒメとされた、三本杉が倒れたことで、その意味はやがてわかる日がくる、とされていたのですが、今回のことで、私にはその意味がわかりました。
これで、日本列島は、これまでの歴史をつくってきた記紀の物語から、次のステージに移行することになるというのが、その理解の先にある結論です。また、精神界のスケジュールは、人間世界のこのクニに確実に投影されているということも確認できたということになります。
黄泉のクニを主宰していたイザナミのデータが、精神界において、光の情報系に入ることで、日本に置かれた仕組みが、死者たちの世界を含む、最後の審判であることも理解できるはずです。まだ、多くの日本人の意識は、明治維新から百五十年の間に、このクニが経験させられた、一神教の悪魔による世界支配の洗脳のなかにありますが、実は私たちのたましいは、イザナギの特性とイザナミの特性を、ムスブものとしてのシラヤマヒメの特性の三位一体のものとして、つくられており、その可能性は、現世も、あの世も結ぶ知に到るもの、つまり、神知に到るものとしての特性が与えられているのです。
私たちは、この宇宙の、いわば神的進化の体現者として、存在しているということに気付くことが、私のお伝えしている覚醒です。
私たち人類の過去の歴史が、神の名によって、どれほど血塗られてきたのかを直視することでしか、神もまたプロセスに過ぎないという、言葉の意味の正しい理解には到れませんが、覚醒すれば、宗教の時代から卒業することにもなるのです。
人間の頭のなかには、別なところから送り込まれる意識エネルギーを言語化したり、映像化したりする機能が附与されていて、精神界の存在は、その回路を使って、人間の意識をコントロールすることができます。この知識を、人間が人間に対して、使用してつくられたのが、現行文明の特質といえるのです。そして、この知識を使用して、世界の支配者のように君臨しているものこそ、古くから悪魔と呼ばれている意識体です。その悪魔を、人間の身体のなかに用意された浄化力の発動で、処理できるというのが、精神学の知の体系なのですが、その知識は、過去に由来するものではありません。それこそが、その時を、誰も知らないと、伝えてきた神知の特性なのです。知るべき時が来たら、知れるということは、その知が、どこからもたらされるかを考えることを人間に求めることになります。考えれば、私がくり返しお伝えしている、約束ははたされる、というその日、その時が、いま、来ていることがわかります。

二千十九年二月七日 積哲夫 記