Vol.623

吉田松陰

この二千十八年十月のはじめに、私は山口県にある松陰神社に行って、長門の門が開いたことに連動して、神界に引き上げられた松陰ノミコトと会ってきました。
そこでわかったことは、神界に座を得た松陰先生は、「最終知識」をすでに読んでおられ、自分が刑死したのちの歴史も学び終えていたということです。
そして、今日の日本が自分の目指したクニとはあまりにかけ離れていることに、大きな責任を感じておられ、改めてはたらく決意をしていることを確認させていただきました。
そこでわかったことは、松陰先生が神からお札を渡され、そこに記された文字の夢を見て、つけられたとされる「二十一回猛士」という号の文字は、自身が説明しているものとは別に、「二十一世紀に回帰する猛士」という神示であったということでした。
なぜ、ここで私が松陰先生という萩の市民が一般的に使う言葉で吉田松陰のことを書いているかというと、その人物像が伝えられている通りのつつましさを、神界にあっても保持していたからです。
たぶん吉田松陰は、この日がくることを、生前から知らされていたはずです。
そういう認識があって、わずか三十年の生涯を濃密に生き、自分の死後のための肖像画を、先生と呼ぶにふさわしい老人の姿で描かせたというわけです。
また、日本神界にとっても、吉田松陰と高杉晋作の死によって、跡絶えていた、民意としての維新を改めて進行させるタイミングが、今、なのです。
それこそが、回天です。
日本人が日本を再発見することでしか、この真の維新は実現しませんが、幕末の長州藩をつき動かした情熱が、表面上は消し去られた古き神々の記憶にあったことも、私のデータのなかに入ってきました。それは、ほんとうの神性を持つものたちの復活という物語につながるのですが、その情報開示として、この十月十五日に新・神知と人知というシンマガに掲出された言葉があります。
これによって、松陰先生が生きた時代と似たような状況が日本列島を覆うことになります。
世界の状況もそうですし、日本国内もそうです。
現在の日本は、民主主義とはいっても、戦前の民主主義よりももっと悪い、アメリカ型のディープステートの支配する擬似民主国家に過ぎません。そこでは、天皇も軽視され、内閣総理大臣も、国民から負託されたちからを行使できない、官僚システムが実質上の統治者になっています。
私はそれを霞が関幕府と呼びたいと思いますが、その倒幕運動がこれからはじまるのです。
不思議なことですが、西郷隆盛を中心とした薩軍は、復活して、アーリントン墓地を目指しましたが、吉田松陰と共に復活した高杉晋作と奇兵隊、または、松下村塾のメンバーの目標は、どうやら、長州が主体となってつくったとされる明治政府とその残滓による、現在の日本のディープステートの打倒を、一般国民の潜在意識にはたらきかけるような覚醒作用のようです。
これについては、私がこれまでもくり返してお伝えしてきたように、正しい日本の歴史を知らなければ、この日本の苦境からの脱出はないのです。
このはたらきかけは、二十一世紀に入って、精神界から人間界へという知識のエネルギー領域で続いてきたのですが、ここへ来て、多くの国民の顕在意識にものぼるようになり、その象徴として、百田尚樹という作家の「日本国紀」という本が、出版前から、各予約サイトのトップという、これまでの日本では考えられないような事象が起きています。
その著者は、たぶん、自分の人間的なちからによって、その本が書かれたのではないことを知覚しているはずです。このように、精神界は人間界へのはたらきかけを強めています。
これもくり返しになりますが、すでにこのクニの人間のうちにおいて、最後の審判は着々と進行中なのです。天意によって生きたものは、松陰先生のように、光に引き上げられ、また、はたらきます。それは、死は終りではないことの証しなのです。
多くの人間がそのことに気づく日が近づいています。そこから世界を一新するムーブメントが生まれるのです。

二千十八年十月十八日 積哲夫 記


【いままで隠されていた文書の再公開/霊性時代Vol.17】 

いま進行中のこと。

2006年2月11日の<みことふみ>によって、精神界と人間の関係にある変化が生じました。神と神々と人間に、新しい契約関係が生まれたのですが、見えても見えず、聞こえても聞こえない人間にとっては、何も変わらないことはいうまでもありません。ただ、これによって人間の使う言葉から、急速に光が失われていくことは、すでにお伝えしたとおりです。
現代人というものは、科学というものを信仰の対象とするかのように、理性を信じ、神というものもまた、人間の想像力から生まれたと説明することで、科学技術の時代の継続を願っているように見えます。しかし、その現代人の脳に投影されている宇宙観も、実は、神でも神々でもない存在によってつくり出されたものに過ぎません。そして、その宇宙観を信じる人間は、すべてはちりに返るというベクトルを選択したものということになります。
いま、神仙界というものはありませんが、そこには、人間が神々の次に位置するきわめて上位の存在であるという知識がありました。神がいて、神々がいて、人間がいて、その下に、人間に生まれる可能性を持った意識体が存在するという、自然な進化の序列があったといってもよいのです。人間は、生命を持つ、意識体という、この物質宇宙の進化の子として、精神宇宙ともいうべき非物質宇宙とをつなぐかけがえのないポジションにいるのです。
私は、くり返し、科学は魔術の子なのですよと伝えてきました。その科学が光の側面を失う時代に入ったことを、多くの先端的な学者や研究者は気づいています。これから、人間は、どこへ向かおうというのでしょうか。
「最終知識」では、人間は自由だと伝えています。ちりに返りたいものは、ちりに返ればよいのですが、その他の人間に、汚染をひろげることも、次の世代に闇のエネルギーの処理をゆだねることも、許されることではないのです。その責任を問う意思表示が、実は2月11日の<みことふみ>です。審判とは死後なされるものではありません。生きている人生そのものが審判の場なのです。気づいていただけませんか。

2006年2月17日 積哲夫記