vol.527

西暦六百六十三年と二千十六年

この国は、西暦六百六十三年に、白村江の戦いで敗れ、それが決定的な転換点となって、古事記や日本書紀が記されたことは、これまでも何度もお伝えしてきた通りです。この白村江の記憶を、現在も伝え続けているのが、安曇野の穂高神社なのですが、そこには、白村江の戦いで死んだとされる安曇比羅夫がまつられて、白村江の海戦を伝えるとされる船祭りが、いまも九月二十七日に行われています。この神社の奥宮は、上高地の明神池のところにあり、もともと九州の海人族であったとされる安曇族が、北アルプスの穂高連峰を神々の座として守ってきた、この国の秘密の扉が、この二千十六年の十二月に開かれることになりました。
一千九百四十五年の対米敗戦は、この国の歴史上最大の敗北ではありましたが、明治維新の日本が信じた西欧近代の国際法による戦争終結のルールが適用されなかった結果が、今日の日本の姿を生んでいます。その第二次世界大戦というものから生まれた戦勝国側のルールで、世界を統治しようとする国際機関が、現在の国連なのであり、日本は敵国条項の対象であり続けています。ただし、歴史は動き、ソ連邦が崩壊したあとに生まれた、アメリカの一極支配の構造も、EUの台頭と中国の成長によって過去のものになりつつあります。このタイミングで、一般のアメリカ人の持つモンロー主義的な傾向によって選ばれた大統領が登場するのも、歴史の必然だと考えれば、これからの世界がどう動くかもおぼろげながら見えてきます。
天の配剤としてあった、神の国としてのアメリカというイメージが復活することは二度とありませんから、これからのアメリカは、その歴史の罪深さを背負うものたちの国になっていくはずです。いまの世界の決定的な問題は、一神教の宗教的問題というよりは、ヨーロッパの近代に生まれた、植民地主義を正当化したイデオロギーにその根があります。
東インド会社以来の資本主義にしても、カール・マルクスという人間的に問題のある人物の頭の中から生まれた、共産主義というものにしても、それらは、キリスト教の文化圏由来ではあっても、神や神々とは無縁な人間の考え出したものにほかなりません。
いまの日本という国は、敗戦後の七十数年という時間の経過のなかで、それらの西欧近代のイデオロギーや価値観のすべてが移築された状況のなかに置かれていますが、それこそが最後の一厘のしくみのどんでん返しのための条件なのです。その用意として、私は、この十二月に安曇野の穂高神社に呼ばれ、安曇比羅夫のみたまに会ってきました。そこで私が感じたのは、海ゆかばの歌詞を書いたとされる、大伴家持は、白村江の戦いのことを知っていて、安曇比羅夫の戦いぶりも伝え聞いていたかもしれないということでした。
私は、あの第二次世界大戦の日本軍の兵士たちのたましいが復活しているのもまた、この最後の一厘のしくみの一部であることをお伝えし続けてきました。
この流れの延長上で、今回の安曇比羅夫との出会いがあったとすると、海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草生すかばね、として死んだ多くのものたちのたましいに、無駄死にはないことになります。
私が、死んだら終わり文明と呼んでいる、西欧近代のイデオロギーは、神はいないというよりも、最後の審判の時はこないのではないかという、ヨーロッパの千年紀の人間の懐疑から生まれたものだという視点から歴史を見直してみてください。
この千年紀が、ほとんど悪魔的な思考に取り憑かれた人間たちがつくってきた歴史だとわかるはずです。
同じ千年紀の日本では、源氏物語が書かれていました。このクリスマスに、アメリカが反省期に入ることで、何が起きるのかを考えてみるものいいでしょう。
アメリカは、かつては神の国でした。いまその地位を狙うのは、もともと神なき国であった地域を完全な無神論者たちが支配する中国という名を使う巨大国家です。それもまた、最後の一厘のしくみだとするならば、私たちは日本人として、この歴史の試練に向き合わなければなりません。
すくなくとも、日本人のたましいは、ひと続きの時間のなかで成長してきたことに気づけば、私たちの役割も見えてきます。

2016年12月22日 積哲夫 記