「誰かの話」
たとえばおまえは、自分が作ったものを誰かが喜んで使ってるのを見るのが好きだろ。
けど世の中には、誰かが心を込めて作ったものを使うことに喜びを感じるやつもいる。
両方いないと、社会は成り立たないんだ。
ホントはな、それが神から与えられたDiversity(多様性)ってことなのさ。
けど今の時代、どこもかしこも結局みんな「金持ちになりたい」で終わってるだろ。それはDiversityじゃない、ただの一様だ。
この社会は、どこかおかしいのさ。
だからな。
悪魔に魂なんか売るんじゃないぞ。
こんなにつまらない世界に、無理して合わせていく必要なんかないんだから。
おまえ、ただ生きるために金稼ぐとか、ときめかないだろ。
生き方は、人生の目的は、自分の『ここ』(魂)が知ってる。
みんなそれぞれ、好きなこと、嬉しいことが少しずつ違うんだ。
それに出会えば魂が震えるようにできてる。
だから、社会が成り立つんだ。
成り立つように、できているのさ。
なんで、それをしないんだろうな?
*
きっとみんな、自信がないんだよね
能力がない、できない、自分はこんなんだから、変われない。
できっこない、やれっこない、アイツはあんなこと言って、どうせ――
みんな、妬む者(Envy)のままなんだ
羨ましがって指をくわえて、自分は何もしない、足を引っ張って、蹴落として、騙して、騙して、楽して。
そうしたら美味い汁が吸えるんだ。って。
でもさ、それって苦しいよね
きっと寂しいよ
そこにいる人たちは、きっと、何とも思っていないけど。
誰かを待ってて、他人任せで、何もしなくて、動かない。
でも、昔読んだお話の登場人物はね。
「天があるならば、それは決して無謬ではない。人は自らを救うしかない」って、ちゃんと教えてくれたんだよ。
そうやって、頑張って、くさらずに、自分は絶対、絶対、こうなるんだ、って、まっすぐ信念をもって生きるでしょ。
意志は、魂そのものだから。
そうやってまっすぐ生きる姿は、みんな好きでしょ。
神さまも好きなんじゃないかな。
そうやって、誰かを助けて、助けられるようになるとね。
そこはもう、神さまの国だよ。
イエスは嘘なんかついてないよ。
すぐそこにあったのに、どうして皆、気がつかなかったんだろうね。
自分の在り方と想いを変えるだけで。
そこはもう、地獄じゃなくて、幸せな場所だったんだよ。
まぁ……その時その時で堕ちることもあるけどさ。
その時はまた、歯を食いしばって立ち直るさ。
何回もそうやって立ち上がってきたもの。
たまに励まされながら。
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(この日曜日に、伊勢神宮に行きました。
一日中雨が降っていましたが、神社参拝の日は、必ずといっていいほど雨が降るように思います。。なのに傘を忘れてしまったけれど。
雨で人が少なめであることに感謝しつつ、外宮、内宮と参拝してきました。
境内は参拝客が多く賑やかでしたが、足元の玉砂利の音に集中し、境内に満ちたご神気にひたすら感覚を研ぎ澄まして歩きました。一緒についてきた祖母は半分置いてけぼりです。
外宮に足を踏み入れると、白い直衣姿?で黒い烏帽子をかぶった神官の人が、少し先に立ってこちらを見つめているような、そんなイメージを受けます。
こちらが正殿です、と、少し先を案内してくれて。
外宮の奥にやってくると、正殿と同じぐらいの大きさの、ぽっかり空いた空間と、ぽつりと小さなお宮のような建物があって、これは何だろう?と思ったら、これが式年遷宮の時の「米座」で、今は「金座」に正殿があるのだ、と教えてくれました。浅学なためありがたい解説でした。。。
確かお賽銭はダメだったはず、と習慣からついしたくなるのを堪えて参拝を終えると、「右へ」と促す声が脳裏に響く。出口が右にありました(なるほど)
外宮の最後の鳥居をくぐって出る時、ふと背後で、金色の泡のように光が溢れ出る気配を感じたように思います。「ありがとう、楽になった」と聞こえました。
誰かが何かから解放されたのかもしれません。
別宮にも参りたかったのですが、10時も半ばに近く、正午までに内宮参拝まで終えたかったため、やむなく行程カット。
いろいろ不思議な体験をしましたが、いくつか神社にお参りした中でも、やっぱり伊勢神宮は居心地が良くて、好きな場所です。
観光客にあふれて雑多な中でも、一人、静謐に、精妙に、神気を拾って、静けさの中に佇んでいられるので。)