No.5

「メメント・モリ」

先日、知人が亡くなったと風の噂を耳にした。
癌で闘病生活を送っていたはずだ、ということを、それでおぼろげに思いだした。

死した翌朝、葬儀もなく、ひっそりと出棺されたそうだ。

身近な人間が死した時、葬儀はどうやってするものだろうか。改めて思い返すと、その時点でつまづいて――というより、答えに詰まってしまう。

死者の送り方ひとつですら、もはや、我々は術を失っていたのだ。

死について、あまりにも人間は考えることが少なくなった。というよりは、死後について、何も考えなくなった、感じなくなった、というのが正しいのだろうか。
宗教がかつてはその役割を果たしていたが、今や、誰もそれを信じるものはいなくなった。

戦後、神国を掲げて戦った結果の敗戦を目の当たりにした人間は、神も仏もないのだと、無神論者に宗旨替えをしたのだろうか。信じることが馬鹿らしくなったのかもしれない。そして、同時に、戦後の日本人と神々の間の繋がりは、か細かっただろう。

仏教徒として、家のしきたりに沿って死者の葬送を行うとして、古くからの檀家として決まった寺に任せるなんて、難しいだろう。それははるか昔、家族が代々ひとところに収まっていたから成り立っていた話だ。
そうなると、同じ宗派の近場の、顔も見知らぬ僧侶に、大切な人の送りを任せる、という答えになる。

よく考えてみれば、私は日本人として実に雑多な信仰環境で育っている。家は浄土真宗、保育園では釈迦如来を拝み、初詣は神社でなくて寺。仏教系で育ったものの、大学はキリスト教主義、最終的に興味を持ったのは神道だった。
そんな人間が、いったい誰に死者の葬送を任せるのだろうか。右も左も分からず、作法も慣習も知らずに育った。信仰こそあれど無宗教なのだから。

けれど、やはり周りをみて右に倣えの日本人。思うところがあったとしても、結局仏教と僧侶にすべて任せてしまえば…と流されてしまうのだろう。
そうすれば、後ろ指もおかしな噂もたてられずに済む……と。

結局、私たちが死者を送るに際して、心情的に一番厄介で敵にまわりやすいのは、そういった周りの人間となってしまう。

死を思うことなく、生きることなどできはしない。
私たちが最後にどこへ行くのか。考える暇もなく、瞬く間に時が過ぎる。そんな無為な世界を何十年と過ごし、ただ死ぬのは、地獄だ。私は十年前、それを嫌だと拒否した。

家族が死してなお、安らぐことなく、あてどもなく彷徨うことになっていると知った時、思うことなどひとつだ。助けてやりたい、と思うだろう。正しい場所があるなら送ってやりたい、と思うだろう。
そこで行動を始めることで、初めて、自分たちが知らずにとんでもない思い違いばかりしていたことが明らかになっていく。

死後の存在はない、非科学的だ、と言い続けてきた人間たちが、精神学のことを知って検証を始めた時、どうやって否定しようとするものだろうか。
何度も、過去から現在にわたって、明らかに関わってきた痕跡を残し、一貫して続けてきた。そんな証拠しか残っていない。

意識と知は共有されるものだ。辿り着ける場所に置かれている。行けるものがいれば、互いに互いを知らずとも、同じ情報を入手することなど造作もない。

再現性こそが科学上もっとも重視されるのだ。論文はそこに重点を置いて書かれる。検証と証拠の入念な積み重ねから得られた結果と考察が、何度も何度も叩かれて、度重なる検証の末に、おそらく正しいだろう、と認められるようになる。
ならば、十人、二十人、と、全く異なる場所で、同じ情報を得ることができる現象を目の当たりにした時、誰が精神界という領域の存在を否定できるのだろうか。

繰り返しになるが、誰が何度やっても同じ、それが、科学上における正しさ、なのだ。

日本人の量子学研究者には頑張ってほしいと思う。神という存在を起点としなければ、この世界は存在し得ない。

思考回路と世界観が、歯車のようにかちりとかみ合わない限り、知識は降りてくることができない。

そう、たぶん、『まだ見ぬ神の理』は、降りることができる場所を、探している。
それは、人間の脳だ。
知識が揃い、思考回路がその『求められる形』に沿わぬ限り、時が来るまで、暗号化されたデータとしてしか存在しない。

この世界が、意思を持ち、未来へ進むベクトルを有している。そして、それは決して欲望の果てにある地獄など望んでいない。

それを知り、まだなお、人の未来のために理を求める人間の脳を、探している。

キリスト教世界で生きた人間には、無理なのだ。その宗教的価値観の中でしか生きられない者に、宗教の許容できる範囲をはるかに超えたこの物語宇宙の法則を、自らの宇宙の中に許容できる道理などない。

その思考回路と世界観と、教育を持ち合わせることができるのは、世界でただ一つ。他にはありえないだろう。

他国の言葉を学ばずに、どの宗教世界的限界にも捉われることなく考え、学を進めることができる。稀有な脳と言葉を与えられた存在なのだと、自分たちの価値に気が付いた時。
おそらく、それが未来への分岐点の一つとなるはずなのだが。

そんなことを、今日、思った。